鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

鎌倉・室町

朝比奈三郎義秀…小坪の浜でサメ三匹を捕まえた本朝無双の剛勇

この夏、茅ケ崎の沖合にサメが出没したことから、湘南海岸一帯は遊泳禁止となってしまった。海の家など、商売上がったりで、さんざんな夏になってしまったようじゃな。さて、湘南とサメといえば……本朝無双の豪傑と言われた朝比奈三郎義秀じゃな。

吉見御所(伝・源範頼館跡)にいってきたよ

先日の埼玉スタ遠征のついでに吉見町あたりをぶらぶら。吉見町は蒲殿こと源範頼さんに所縁の地。蒲殿は兄・頼朝公の代官として木曽義仲、平家追討の大将軍という大任をはたした人物。人気、知名度とも弟の九郎義経殿には及ばぬが、鎌倉武士の主力軍を率いて…

何気ない「ひと言」が命取りになってしまった蒲殿こと源範頼さん

ふつうは修善寺といえば源頼家公ということになるんじゃろうが、この地には河内源氏の流れを汲む源義朝公の六男で頼朝公の異母弟、九郎義経殿の異母兄である源範頼さんも眠っておる。

木曾義仲の火牛の計、倶利伽羅峠に行ってきましたよ

この夏、一度はいってみたいとかねてから思っていた越中・加賀国の国境・砺波山の倶利伽羅峠に立ち寄ってみた。平維盛が本陣をはったといわれる場所には源平の慰霊碑があり、角に松明をつけた牛さんが2頭いらっしゃってのう。 なんか、笑ってしまうわw

富士の人穴に潜入し、山神の化身である猪を仕留めた仁田忠常に霊峰富士の天罰 がくだった?

今日は比企能員の変に関連するエントリーをひとつ。仁田忠常は、伊豆国の住人。伊豆挙兵から源頼朝従い、その信任を得た。源平の合戦では源範頼に従って各地を転戦し、奥州藤原攻めでも武功を挙げている。忠常が病で生死の淵にあったとき、頼朝は見舞いのた…

無念!比企能員……妙本寺に比企一族を偲ぶ

今日は所用で午後出社の予定だったけど、中途半端に仕事をするのもどうかと思い、けっきょく休むことにし、午後はぷらぷらと鎌倉散歩。 行き先は比企谷の妙本寺。北条氏に滅ぼされた比企能員の館があったところじゃ。

三浦胤義はなぜ、承久の乱で後鳥羽上皇の味方をしたのか?

承久の乱のことをつらつらと書いてエントリーしてきましたが、三浦胤義が気になったので、少し書いておこうかと。 三浦胤義は三浦義澄の末子で、畠山重忠の乱や和田義盛の乱では、兄・三浦義村とともに出陣し功を立てている。検非違使判官として在京中に、藤…

承久の乱、皆心を一にして奉るべし…尼将軍・北条政子が御家人に喝!

承久の乱の勝利により、北条の政権基盤は確固たるものになるのじゃが、第一の殊勲は、やはり尼将軍・北条政子殿じゃろう。

後鳥羽上皇、人に不意(1221)討ち承久の乱

少し前に、実朝暗殺とその黒幕についてエントリーしたけれど、今日は、その関連で、後鳥羽上皇についてじゃ。 人に不意(1221)討ち承久の乱 後鳥羽上皇といえば承久の乱。承久の乱は、有史以来はじめて武家が朝廷と戦って勝利し、天皇、上皇を島流しにしたと…

源実朝暗殺の黒幕は北条義時か、三浦義村か、それとも…

源実朝公暗殺事件について、昨日の続きを好き勝手に書いていこうかと思う。なお、事件のあらましは、こちらをご覧くだされ。 takatokihojo.hatenablog.com

源実朝暗殺…出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな

先日、鎌倉にも大雪が降ったが、鶴岡八幡宮で、将軍・源実朝公が甥の公暁に暗殺されたのも、こんな日じゃったのかもしれん。今から795年前の1219年2月13日(建保7年1月27日)、鎌倉は雪が二尺ほど積もったそうじゃ。そこで今日はこの事件について少々書こ…

永福寺(ようふくじ)跡

鎌倉宮から瑞泉寺へと向かう途中に、国指定指定史跡の永福寺(ようふくじ)跡がある。

梶原景時追放—コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ

今日は少しお散歩の足を伸ばして、梶原御霊神社へ。 ちなみに鎌倉には御霊神社はもうひとつあるが、この御霊神社を建立したのは梶原景時。祭神は梶原氏の祖で後三年の役で奮戦した武勇の人・鎌倉権五郎景政。じつは、長尾景虎(上杉謙信)の長尾氏が、この系…

女傑か?悪女か?鬼女か? 尼将軍北条政子「産湯の井戸」にて思う……

韮山の北条氏邸・円成寺跡の東側、伝堀越御所跡の向かいに「尼将軍北条政子産湯の井戸」。

源頼朝公が挙兵した石橋山古戦場跡とねじり畑

小田原に行った帰りに石橋山古戦場跡へと少し足を伸ばしてみた。このあたりは、みかん畑が広がっていてじつにのどかである。石橋山から鎌倉、三浦半島方面をのぞむ。

伊豆の願成就院に北条時政公のお墓参りに行ってきたよ

伊豆・韮山は北条時政公のお墓がある願成就院へ。『吾妻鏡』によると、願成就院は北条時政公が、源頼朝公の奥州討伐戦勝祈願のために建立したとされている。現在はこぢんまりとした境内じゃが、鎌倉時代には、伊豆屈指の大寺院だったらしい。

伊豆の成福寺〜法灯を守り続ける北条氏の子孫

北条氏は鎌倉陥落の時にワシ・高時が自刃。北条氏再興をめざした息子・時行も鎌倉龍ノ口で斬られ、北条氏の血筋は途切れたとされているが、どっこい、北条発祥のこの伊豆の地で、そのの正統は連綿と受け継がれているという。 不覚にもまったく知らんかったわ…

伊豆・真珠院 源頼朝と恋に落ちた伊豆一の美女、八重姫の悲劇

伊豆の蛭ヶ小島に流された源頼朝公と北条政子殿との駆け落ち話については、すでに書いたので、それをご覧いただくとして。 http://qooqoo.hatenablog.com/entry/2013/07/29/000000 今回はそうした歴史の狭間に埋もれてしまった悲しい女子とお父さんのお話。 …

伊豆の北條寺〜北条義時公と伊賀の方夫妻のお墓に行ってきたよ

前回の北條寺へ北条義時公のお墓参りに行った話のつづき。 境内の小四郎山への階段をのぼっていくと、義時公と後妻の伊賀の方の墓所がある。義時公の墓といえば、鎌倉の法華堂があり、遺構が発掘されているが、こちらのお墓は泰時公によってつくられたものだ…

伊豆・蛭ヶ小島 源頼朝と北条政子の駆け落ち〜闇夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君が所に到る…

北条氏ゆかりの地・伊豆は韮山まで行ってきたぞ。伊豆は鎌倉から近いし、何度も行ってはいるけれど、いつも「今度来たときに立ち寄ろう」と素通りをくりかえし、ようやく訪問することができたというわけじゃ。 まずは源頼朝公流刑の地・蛭ヶ小島。現在は公園…

仏日庵 北条時宗、貞時、高時の得宗3代のお墓に行ってきましたよ

所用で北鎌倉へ行ったついでに円覚寺に立ち寄ってきた。北条時宗公が元寇の戦没者追悼のため無学祖元を招いて創建した円覚寺。その奥まったところに円覚寺塔頭の仏日庵がある。 時宗公はここに小さな庵をむすび、禅の修業を行っていた。時宗公没後、そのお堂…

曽我兄弟の仇討ち—黒幕は北条時政?蒲殿・源範頼?

赤穂浪士の討入、伊賀越の仇討とならんで、日本三大仇討のひとつとされる曽我兄弟の討入。梅が咲き誇るこの曽我の郷が、曽我兄弟が育った地じゃ(あ、わしの愛犬は無視してほしい)。 曽我物語について 『曽我物語』で知られるこの仇討は、源頼朝公による富…

相模川で源頼朝公の死因を考えてみる

相模川をわたるとき、いつも気になることがある。それは、どうして、源頼朝公ともあろうかたが、とつぜん、ここで落馬したのか、ということじゃ。あ、犬は無視してください。

東勝寺橋と青砥藤綱…十文は小なりと雖 之を失へば天下の貨を損ぜん

「かまくらの景観百選」にも選ばれている、滑川にかかる東勝寺橋。大正13年に建造されたアーチ構造の鉄筋コンクリート橋じゃ。 この東勝寺橋には、川に落とした10文の銭を、50文かけて探したという青砥藤綱の逸話が今に伝わっている。 十文は小なりと雖 之…

源頼朝公のお墓参りへいってきたぞ

源頼朝公のお墓参りに行ってきました。 建久10年(1199)、53歳で亡くなった頼朝公は大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬むられる。その後、宝治合戦のおり、北条時頼公に攻められた三浦泰村は一族とともに、ここ法華堂に立て篭もり、頼朝公影像の前で自害した。…

源氏三代の政庁、大蔵幕府跡

治承4年(1180)、富士川の合戦で平氏に勝利した源頼朝公は、鶴岡八幡宮の東側に大蔵御所を築く。現在は「大蔵幕府跡」の碑が残るのみじゃが、以後、頼家公、実朝公を経て尼将軍・北条政子殿が亡くなるまで、この地が鎌倉幕府の中心であった。

北条時政の江ノ島参籠—北条の天下は七代まで?

ごぞんじのように、北条氏は桓武平氏・平直方公を祖とするが、大いに世に出たのは北条時政のときのこと。

鎌倉幕府は「いいくに(1192)」ではなく「いいはこ(1185)つくろう」?

かつて、教科書では源頼朝公が鎌倉に幕府を開いたのは1192年(建久3年)とされ、「いいくにつくろう鎌倉幕府」と語呂合わせでその年号を覚えたものじゃ。じゃが、最近では、鎌倉幕府のはじまりは1185年(文治元年)とされ、「いいはこつくろう鎌倉幕府」と…

鎌倉北条氏の興亡…わしの代で滅んじゃったんじゃ

2007年に県立金沢文庫で行われた特別展「鎌倉北条氏の興亡」の補助解説冊子(監修:水井晋 絵と文:向坂卓也)に載っていた歴代の「三つ鱗」の独白。これ、キャラも事績もよくわかって、なかなか面白いのですが、北条の一族というと、やはり全体的に暗い印象…