鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の日々の備忘録。湘南ベルマーレを応援しています。

頗る亡気の躰にて、将軍家の執権も叶い難かりけり

お初にお目にかかるが、わしは鎌倉幕府第14代執権にして最後の得宗、北条高時じゃ。みんながすなるブログといふものを、わしもやってみむとてするなり。ということで、少々自己紹介をさせてもらおう。

「 頗る亡気の躰にて、将軍家の執権も叶い難かりけり」(『保暦間記』)

後世、わしは、暗愚よ、うつけ者よ、と口をそろえて罵られる。たしかにわしは、名執権と言われた祖父(時宗)や父(貞時)ほど、才も徳もない、凡庸な人物だったかもしれん。おまけに生来の病弱、太守とは名ばかりの傀儡ゆえ、鬱々とした日々を無為に過ごし、田楽、闘犬にうつつをぬかしていたのだから、亡気の誹りも免れんじゃろう。

じゃが、そうした批判は後世の『太平記』など、足利時代に編纂された史書に記されているだけで、室町幕府の創始者・足利高氏の正当性を訴えるために、必要以上に悪く描かれている面もあるんじゃよ。いつの時代も「勝てば官軍」、歴史は勝者がつくるものだから、それはしかたがないことじゃから、とくにうらむこともないのじゃが……

わしが生まれたのは嘉元3年(1303)12月2日。父は最勝園寺入道こと9代執権・北条貞時で、母は側室で安達泰宗が娘、のちの覚海尼。幼名は成寿丸、元服は7歳のときであった。
じつは、わしは四男だったのじゃが、嫡男の菊寿丸、次兄の金寿丸、三兄の千代寿丸が、「寿」の文字が悲しくなるほど、あいついで夭折してしまってのう。しかも、相次ぐ息子の死と幕政改革の心労のせいで、父・貞時が応長元年(1311)10月26日、41歳で没し、わしはわずか9歳で得宗家を嗣ぐことになったのじゃ。

執権の職を嗣いだのは正和5年(1316)14歳の時。とはいえ、幕政は姑の安達時顕と内管領・長崎円喜に任せるほかはなく、わしはいわれるままに判を押していたにすぎんのじゃ。

そもそも14歳の若造に、いったい何ができるというのじゃ。花園院もその日記に、「近年東風頗る若亡有り。関東当時無人の故か」と幕府の指導者不在を記しておるし、連署の金沢貞顕ですらも「連日御酒、当時何事もさたありぬとも覚えず候、嘆き入り候」と、当時の鎌倉の有り様を嘆いておるが、そんなこといわれても……のう。

もちろん平時ならば、まだ、それでもよかったかもしれぬ。しかし、わしが得宗を継いだ頃から、各地で悪党が跋扈し、奥州では安東氏が反乱をおこし、鎌倉幕府の屋台骨は揺らいでいく。そして「当今御謀反」、後醍醐天皇が登場してくるというわけじゃよ。まあ、そのあたりの話はおいおい書いていこうと思う。

ちなみに、わしは政治や戦は大の苦手だけれど、芸能文化には関心が深く、大いに庇護したのじゃよ。田楽はともかく闘犬が芸能かどうかは意見が分かれるかもしれないけれど、じっさい、南山士雲や夢窓疎石ら禅僧との親交も深く、仏画の腕前などはなかなかだったのじゃ。

筆跡や花押も立派なものだとみんながいうし、世が世なれば、わしもこれほど悪名を轟かせるようなことは無く、ちょっとした文化人として後世、知られていたかもしれんぞ。

閑話休題 このブログは歴史ネタを中心に書いていくつもりじゃ。初心者歴オタゆえ、学術的にまちがった内容もあると思うが、そのあたりはどうかごかんべんいただき、やんわり指摘してもらえれば幸いじゃ。