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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

鎌倉幕府は「いいくに(1192)」ではなく「いいはこ(1185)つくろう」?

かつて、教科書では源頼朝公が鎌倉に幕府を開いたのは1192年(建久3年)とされ、「いいくにつくろう鎌倉幕府」と語呂合わせでその年号を覚えたものじゃ。じゃが、最近では、鎌倉幕府のはじまりは1185年(文治元年)とされ、「いいはこつくろう鎌倉幕府」と覚えるようになっておるが、今日はそのことについて。

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あ、ちなみにこの肖像画も源頼朝公ではなく、足利直義という説もあるらしいが、まあ、これは今日の主題ではないのでさておくとして……

1192年(建久3年)は頼朝公が征夷大将軍に任命された年。従来はこれをもって鎌倉幕府の、ひいては武家政権の始まりとされてきた。じゃが、いつをもって幕府の成立とするかは、長年、史家の間でも議論が続けられてきた。室町幕府では足利尊氏が、江戸幕府では徳川家康征夷大将軍に任命されたことをもって幕府の創始年としてきておるので、そのままでもよいのかもしれぬが、史家の間では、1192年というのはむしろ少数派だったそうじゃ。

1185年(文治元年)というのは、全国に守護・地頭が設置された年。頼朝公は後白河法皇に、源義経殿を捕まえることを名目に、全国に行政官とも言える守護の設置を要求。あわせて土地の所有と管理のために地頭を置くことを求めた。これは大江広元による献策とされ、「吾妻鏡」の11月28日の記述には、北条時政公が使者となったことが記されている。

諸国平均に守護地頭を補任し、権門勢家の庄公を論ぜず、兵粮米(段別五升)を宛て課すべきの由、今夜北條殿藤中納言経房卿に謁し申すと。

これが後白河法皇に認められたことで、頼朝公は全国の支配権を確立したし、鎌倉幕府の創始と解釈しようというわけじゃな。この年には、前政権とも言える平氏が壇ノ浦で滅んでおるし、わからんでもない。

まあ、北条氏の立場からすれば、将軍あっての執権じゃし、語呂もニュアンスも「いいくにつくろう」のほうがいいと思うから1192年のままでいいじゃないかと思うが、歴史学者の多くはそれでは納得しなかったということなんじゃろう。

もっとも、当時は鎌倉でも京都でも「鎌倉幕府」なんて言い方をする者はおらんかったからな。けっきょくは歴史学の区分上の問題にすぎないわけだから、どっちでもよいんじゃが、なんか、今もってしっくりこないんじゃよ。

ちなみに、鎌倉幕府が滅亡したのは1333年(正慶2年/元弘3年)、「一味散々(いちみさんざん)、北条氏の滅亡」と覚えるところは変更なし。もちろん、ぶっつぶしたのは田楽と闘犬にうつつをぬかしておったわし・北条高時ということでw