鎌倉ではたらく太守のブログ

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嘉暦の騒動…北条得宗家の家督継承を巡り、世間聊か騒動す

正中3年(1326)3月13日、『鎌倉年代記』にはこう記されている。

正五位下行相模守平朝臣高時所労に依って出家す。
この後世間聊か騒動す。

ワシはもともと蒲柳の質ゆえ、兄弟たちも夭逝している。このころには、病を患い、執権の職もままならなくなっており、高時はこの日、出家した。法名は「崇鑑」。ところが、ワシが出家すると、得宗家の跡目争いがはじまったのじゃ。

北条高時

長崎円喜・高資父子や御内人は、同じ得宗被官である五大院宗繁の妹・常葉前の間に生まれた幼い万寿丸(太郎邦時)を推す。

いっぽう、高時の母・覚海尼、妻の実家の安達氏は、御内人の勢力拡大を恐れ、弟の泰家を推す。

ワシとしては長崎の機嫌を損じても困るし、母上たちに文句をいわれるのも嫌。仏門に入っても、浮世の些事に心をくだかねばならないというのは、なんともめんどうくさいのう。

とはいえ、家督相続のことは、さほど急いで決める必要もないが、執権職はそうはいかん。そうした中で、長崎は先手をうって、万寿丸が大きくなるまでの中継として、お人好しの金沢貞顕を執権に据えてしまった。

これに覚海尼と安達氏、そして泰家がブチ切れた!『保暦間記』の3月16日にはこう記されている。

舎弟左近大夫将監泰家、宜執権をも相継ぐべかりけるを、高資修理権大夫貞顕に語て、貞顕を執権とす(貞顕は義時子に五郎實泰が彦、越後守實時が孫、金澤越後守顕時子なり)。爰に泰家高時母儀(貞時朝臣後家、城大室太郎左衛門女)これを憤り、泰家を十六日出家せさす。この事泰家もさすが無念に思ひ母儀も憤り深きに依て、貞顕評定の出仕一両度して出家しをはんぬ。

覚海尼と泰家は逆上、「貞顕が得宗をのっとるつもりじゃ」と因縁をつけて、今にも貞顕を殺そうかという勢い。うかれていた貞顕は、たった10日で執権を辞めてしまい、これまた出家してしまうのじゃ。

なんとも騒々しい……こうなってくると、みんな執権などやりたがるものはいなくなってしまったが、けっきょくは赤橋守時が執権に、連署には大仏維貞が就任する。
そして邦時は執権守時が後見し、先例にならって5歳で八幡宮参詣を行い、得宗の後継者としての儀式が滞りなく行われた。長崎父子の勝利じゃ。


それにしても、いちばんかわいそうなのは、こんなゴタゴタのあとに執権をやらされた赤橋守時。安達や覚海尼、泰家から恨まれるわ、長崎にあれこれいわれて牛耳られるわ……

そんな中、守時が頼りにしたのは、じつは妹・登子が嫁いだ足利高氏だったかもしれぬ。しかし最後に高氏は鎌倉幕府を裏切り、守時は北条一門から裏切りよばわりされてしまうのじゃが……
その嫌疑をはらすためか、はたまた抗議の意味もあったのか、守時は洲崎で新田義貞軍に吶喊して、壮絶な戦死を遂げている。その話は、またいずれ。