鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

北条高時、長崎父子を粛正し、幕政改革に乗り出すも失敗

北条高時といえば、闘犬と田楽にうつつをぬかし、政治を顧みなかった暗愚な人物、というのが世間一般の見方のようじゃのう。その点については、「太平記」ではかなり大げさに書かれている面があるものの、否定することはできぬ。じゃが、ワシはワシなりに、幕政改革に乗り出そうとしていたんじゃよ。今日はそのことについて少々。

 嘉暦の騒動の後、政治の実権を握った御内人・長崎円喜、高資父子の評判はすこぶる悪い。

いくらワシでも「さすがに、これはまずいんでね?」くらいのことは感じていたんじゃ。かつて父・貞時は、執事の平頼綱長崎円喜の祖父にあたる)を討ち、幕政改革に乗り出した。そこでワシも、父・貞時に倣い、幕府再建のために長崎父子排除に立ち上がることを決意したんじゃ。

 「叔父御。このごろの高資は、ちょっと増長しすぎじゃない?」

元弘元(1331)年8月(元徳2、1330年との説も)、ワシは幕府奉行人のひとりで、叔父の長崎高頼に相談した。そして長崎父子を粛清すべく、側近たちと内々に事をすすめていたのだが……これがあっさりとバレた!

 「大守、不穏な話を耳にしたのですが……」

詰問されれば、情けないが、ワシはもう「知らぬ、存ぜぬ」と必死で逃げるほかはない。

史書にはこうある。

『鎌倉年代記』

典薬の頭長朝朝臣、前の宮内少輔忠時朝臣、長崎三郎左衛門の尉高頼、工藤七郎右衛門入道、原新左衛門入道等召し捕られ、各々配流せらる。陰謀の企て有るに依ってなり。

『保暦間記』

秋比、高資驕の余に高時が命に随わず。亡気ながら奇怪に思ひけるが、長崎三郎左衛門尉高頼以下の者どもに云付て、高資を討んとしける程に、事顕て高時が身も危ければ、我は知らずと申ければ、高頼が不思議の企なりとて奥州へ流罪す。余党は国々へ遣れけり。

と、ワシの幕政改革はあっけなく失敗するのじゃが、もし、長崎父子の粛正が成功していたら、どうなっていたじゃろうか。頼りにすべきは弟の泰家、執権の赤橋守時あたりじじゃろうか。

とくに守時は足利高氏の義兄だし、ここで高氏をうまく幕政に引きこむことができていれば、幕府の命運はあるいは……いや、足利家には家時の置文もあり、北条への臥薪嘗胆の思いは根強かったわけで、このifは成立せんかのう。

後醍醐天皇はこの後、笠置山に逃れ、楠木正成も兵を挙げる。
かくして鎌倉幕府滅亡は、いよいよカウントダウンに入っていくわけじゃ。