鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

倒幕も南北朝の争乱も、すべては後醍醐天皇のわがままから?

今日はちょっと恐れ多いというか、僭越というか、後醍醐天皇についてじゃ。鎌倉幕府の滅亡も、南北朝の騒乱も、すめてこの御方のキャラによるものなのじゃ。

後醍醐天皇

 文保の和談

持明院統大覚寺統の争いについては、それはそれはややこしく、頭が痛くなってくる。当初より鎌倉幕府としては、この争いには介入しなくなかった。それでも放っておけば泥沼になる。それに加えて、京都からの陳情もあり、しかたなく調停したのが両統迭立を旨とする文保の和談だったのじゃ。

重ね重ね僭越ながら申し上げるが、後醍醐天皇は本来、皇位を継げるお立場ではなかったのじゃ。天皇になれたのはこの和談のおかげのはずなんですが、そのくせご自身は約束をお守りにならぬ。

この和談では、本来皇太子になるべき邦良親王が幼少ゆえ、叔父の後醍醐天皇が10年間のセットアッパーとなり、その後は、邦良親王、そして持明院統量仁親王光厳天皇)が皇位を継承するという約束になっていたはず。

ところがその後在位8年、後醍醐帝は天皇の地位に連綿とし、少壮の公家と語らい、この約束を反故にするために、密かに倒幕を計画したというのが真相なんじゃ。

さらに邦良親王が早世されると、後醍醐帝は今度は自分の皇子を皇太子に立てようと画策し、またもや持明院統ともめはじめる。幕府としては、おだやかに決着してくれればどうでもよい問題なのじゃが、先の和談のこともあり、量仁親王を皇太子にすべきと奏上した。

後醍醐天皇は、これでひどく幕府をお怨みになった。その後、院政を廃止し、約束の10年を越えても皇位を譲おりにならず天皇親政を標榜。さらに、宋学の影響と少壮の公家の扇動、幕府内部のゴタゴタもあり、ついに倒幕を決意するに至ったというわけじゃ。

 

建武の新政も、もとをただせば……

後醍醐天皇は、延喜の治とよばれた醍醐天皇の治世を理想としていたという。それゆえ、ふつうは死後におくられる諡号を、生前に自ら「後醍醐」と定めている。ただ、公家一統の政事を標榜したものの、現実に建武の新政は3年で破綻してしまう。

以下は古典『太平記』より。

事の漏れ安すきは、禍ひを招く媒なれば、大塔宮の御行事、禁裏に調伏の法被行事ども、一々に関東へ聞へてけり。 
相模入道大きに怒っていやいや此君の御在位の程は天下静まるまじ。所詮君をば承久の例に任せて、遠国へ移し奉ゐらせ、大塔宮を死罪に処し奉るべき也。先ず近日殊に竜顔に咫尺奉って、当家を調伏し給ふなる、法勝寺の円観上人・小野の文観僧正・南都の知教・教円・浄土寺の忠円僧正を召取りて、子細を相尋ぬべし。」
宋学にかぶれた少壮の公家が、わいのわいのと焚きつけたのかもしれんが、この帝の下では、世は騒々しくなるばかり。
わしは暗愚よ、うつけよといわれますが、後の建武の新政のでたらめぶりをみれば、北条のほうがよっぽどいいと思うんじゃが、どうであろうかい?
後醍醐天皇も政事は鎌倉に任せて、田楽や闘犬を楽しみ、風雅を楽しみ、おだやかにお過ごしになればよかったのにのう。