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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

足利高氏の裏切り…時節相応天命の授くる所なり。

今日は4月29日、足利高氏が鎌倉を裏切った日。後醍醐天皇が隠岐を脱出し、西国がにわかに騒々しくなってきたため、鎌倉幕府は名越高家と足利高氏を派遣したわけじゃが、高氏にはまんまとしてやられたわい。 

結果論ではあるが、足利高氏を鎌倉から出したことは、虎を野に放つようなものじゃった。おまけに人質として鎌倉に止めおいたはずの嫡男・千寿王にもまんまと逃げられた北条の迂闊さは、なんとも残念きわまりない。

なにをいっても今更詮無きことではあるが……

足利高氏は近江で、後醍醐天皇の綸旨を得て、何食わぬ顔で京都に入る。そして千種忠顕と戦うふりをして、正慶2年/元弘3年(1333)4月29日、所領の丹波に入り、篠村八幡宮で鎌倉に反旗を翻す。

足利贔屓の「梅松論」には挙兵の様子がこう記されている。

同日将軍(=足利高氏)は御領所丹波国篠村に御陣を召る。抑も将軍は関東誅伐の事、累代御心の底に挟るゝ上、細川阿波守和氏・上杉伊豆守重能、あらかじめ潜かに綸旨を賜て、今御上洛の時、近江国鏡駅において披露申され、「既に勅命を蒙らしめ給ふ上は、時節相応天命の授くる所なり。早々思し召し立つべきよし」再三諌め申されける間、当所篠村の八幡宮の御宝前において既に御旗を上げらる。
柳の大木の梢に御旗を立られたりき。是は春の陽の精は東より兆し始む。随て「柳」は「卯の木」なり。東を司りて王とす。武将もまた卯(東)の方より進発せしめ給ふて、順に西に巡りたる相生の夏の季に朝敵を亡ぼし給ふべき謂なり。
しかる程に京中に充満せし軍勢共御御方に馳せ参ずる事雲霞のごとし。則ち篠村の御陣を嵯峨へ移され、近日洛中へ攻寄らるべきよし其聞えあり。都にては去三月十二日より十余度の合戦に打負けて六波羅を城郭に搆へ皇居として軍兵数万騎楯籠る。
かゝる所に去春より楠兵衛尉正成の金剛山の城を囲みし関東の大勢一戦も功をなさず利を失ふ処に、「将軍既に君に頼まれ奉り給て近日洛中へ攻め入り給ふよし」金剛山へ聞えければ、諸人驚き騒ぐこと斜めならず。
かゝるに付きても関東に忠を存ずる在京人并びに四国西国の輩、いよいよ思ひ切りたる事の躰、誠に哀れにぞおぼえし。

足利高氏は老ノ坂峠を京に向かい、六波羅に攻め込む。本能寺の変で、織田信長に謀反を起こした明智光秀が辿った峠道じゃ。鎌倉としては、すぐさま上洛の軍勢を出すことを検討したが、新田義貞挙兵の報に、それもままならず。

5月8日、六波羅探題は陥落。建武政権発足後、高氏はこの功により、わしの「高」を捨てて後醍醐帝の尊治から「尊」を与えられ、足利尊氏と名乗ることになる。北条にとっては足利も新田も裏切り者なわけじゃが、代々、厚遇してきた足利への恨みは新田の比ではなく、わしの遺児・北条時行は南北朝の争乱では後醍醐天皇の南朝に属して足利と戦い続けることになる。

その話はまた、いずれ。