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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

井伊直弼の覚悟の言葉「勅許を待ざる重罪は甘んじて我等一人に受候決意」が創作だったなんて……

今日6月2日は横浜開港記念日。かつて横浜市の公立小中学校は、この日はお休みだったようじゃが、いまのもそうかのう。

ところで横浜開港は、安政6年6月2日(1859年7月1日)のこと。日米修好通商条約締結により開かれたものじゃ。わしが鎌倉を治めていたころは、そんな地名すら聞いたことはなかったが、この開国の決定を下したのは幕末の大老井伊直弼。そこで桜木町掃部山公園には、正四位上左近衛権中将の正装に身を包んだ直弼の銅像があり、横浜港の方角をみつめている。かつてはここから、横浜港が一望できたそうじゃ。

 井伊直弼は開国の恩人か、違勅の国賊

この銅像は、旧・彦根藩士族によって、横浜開港50周年の1909年(明治42年)を期し
井伊直弼の事跡を健勝するために建立された。じゃが、旧・攘夷派の直弼に対する怨恨はすさまじく、除幕式当日、銅像は一夜のうちに首を切り落とされてしまったらしい。また、太平洋戦争中には、政府の金属回収指示によって撤去されてしまうなど、なかなか受難の銅像だったようじゃ。

歴史に必要とされ、埋木の中から舞台に引き上げられた井伊直弼。ある人は「できもしない尊王攘夷で人心を惑わす輩に怯むことなく剛毅果断に開国を決断した日本の恩人」といい、またある人は「勅許を得ずに独断で事をすすめ、最後は安政の大獄を引き起こして有為の人材を殺した逆賊」と、その評価は時代により、人によりさまざま。

当たり前のことじゃが、明治になってしばらくの間は、桜田門外の変を義挙とする水戸人、吉田松陰先生を殺された長州人からみれば、井伊直弼はまさに国賊ともいうべき人物になるだろう。
じゃが、明治21年には島田三郎の『開国始末』が刊行され、それを期に旧彦根藩士族によるまきかえしがはじまる。あの辛口の勝海舟も「其是非毀誉は姑くこれを問ふを要とせず、進んで難衛に当り、一身を犠牲に供し、毫も畏避の念なく、鞠躬尽瘁以て数世知遇の恩に報ぜんと欲す、豈大丈夫と謂はざるべけんや」と、その政治行動に一定の評価を与えている。
現代では、NHK大河ドラマにもなった舟橋聖一さんの『花の生涯』の影響もあり、すべてが肯定されるわけではないものの、直弼の決断により日本は開国し、国難を乗り越えることができたという理解が進んでいるようじゃ。勝てば官軍、負ければ賊軍という、嫌な風潮があらためられ、その点はよかったなと思う。
さて、そうした評価の根拠資料とされるのが『公用方秘録』じゃ。『公用方秘録』は、井伊直弼の側役兼公用人をつとめた宇津木六之丞が中心となって編纂したものだ。とくに直弼のイメージをぐんと高めたのが、条約調印の決意を宇津木らに語った場面の直弼の言動である。
 

「勅許を待ざる重罪は甘んじて我等一人に受候決意」

米国公使ハリスから通商条約締結を迫られた際、直弼は井上清直、岩瀬忠震を呼び、勅許を得られるまで、できるだけ調印を延期するように交渉を命じる。それに対し井上は、どうしても行き詰った場合は調印してよいかを問いただしたところ、直弼は、そのときは仕方がないが、なるべく延期するよう努めよと命じたという。もともと勅許を得られなくても開国をすべきと考えていた井上、岩瀬はこれにより大老の言質をとったことになる。
江戸藩邸にもどると、直弼は調印内諾を与えた経緯を宇津木六之丞に説明した。宇津木は事の重大さに驚いて、撤回するよう直弼に求めたという。それに対し、直弼は毅然としてこう語ったと、『公用方秘録』には記されている。
今日拒絶して永く国体を辱かしむると、勅許を待ずして国体を辱しめざると、孰れか重き。只今にては海防・軍備充分ならず、暫時彼が願意を取捨して害なき者を択み許すのみ。且朝廷より仰進られ候義は、御国体を穢さざる様との御趣意に之有り、抑も大政は関東へ御委任、政を執る者臨機の権道なかるべからず。然りと雖も勅許を待ざる重罪は甘んじて我等一人に受候決意に付き、又言ふ事勿れ

「勅許を待ざる重罪は甘んじて我等一人に受候決意」…かっこういいじゃないか! 政権を担うリーダは、できもしない攘夷をたきつけ、わいのわいのと幕政を批判するだけの口舌の徒とはちがうのじゃ。こうした為政者としての態度は、まさに「開国の恩人」という評価にふさわしいように、わしは思う。

ところが、この『公用方秘録』の記述、じつは改ざんされたものだったことが、平成9年に明らかにされたというのじゃ。

『公用方秘録』は改ざんされていた!

『公用方秘録』は、明治20年ころに井伊家から明治政府に提出されたものじゃが、そのとき関係者によって改ざんされていたというのじゃ。というのも、彦根藩筆頭家老を代々つとめた木俣家にも『公用方秘録』が伝来していて、そこに記載されていた直弼と宇津木のやりとりが、これとはぜんぜんちがうものだったというから驚きじゃ。

木俣本には、宇津木は彦根藩邸にもどってきた直弼の話を聞いたときに、「いくら勅許を得るまで待てといったとしても、条約調印が諸大名の存意を聞いた上で決定されたのであればともかく、そうでなければ世情も騒ぎ立てるし、天皇の逆鱗にふれることにもなりかねない」と指摘したとある。

孝明天皇は条約調印については、再度諸大名で話し合うように幕府に命じていた。それをしてないのじゃから、直弼は宇津木に痛いところをつかれてしまう。すると直弼は、宇津木にこう述べたそうじゃ。

如何にも其所へ心付き申さざる段は無念の至り
此上は身分伺い候より致し方これなし

えっ、直弼さん、それに気づかなかったのは迂闊だったって……責任とって辞職って、 「勅許を待ざる重罪は甘んじて我等一人に受候決意」ではないのか?

このあと、三浦内膳正猷らも、お家の一大事になりかねないので、すぐに品川に使いを出し中止するよう進言するが、直弼は幕閣で決定したことを今さら井伊家の事情だけで撤回することはできないので、大老を辞任するほかはないと弱気になったとか。

そこで宇津木が、直弼が大老を辞任すれば陰謀の輩(一橋派や攘夷派)の思う壺である、そもそも大政は幕府に委任されているのだから突き進めばよい、と直弼を鼓舞し、ようやく直弼も覚悟を決めたというのじゃ。

いまさらそんなこと……ちょっと、ねぇ……

でも、うっかりしてしまうことも、弱気になってしまうこともありますよね、人間だもの。

とはいえ、ここで気合を入れ直した井伊直弼は以後、戊午の密勅、安政の大獄、そして桜田門外の変へ突き進んでいく。直弼がいうとおり、ここで大老を辞任していた方が、本人にとって、彦根藩にとって、幕府にとって、日本にとってよかったのか悪かったのか、それはちょっとわからんね。

咲きかけし たけき心の ひと房は 散りての後ぞ 世に匂ひける

なお、このあたりの詳しいことは、母利美和著『井伊直弼』をぜひ、お読みいただきたい。また、井伊直弼美術館のHPにも、この件に関連して、とても興味深い内容が掲載されていますので、直弼ファンのかたはぜひ!