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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

鎌倉陥落。そのとき北条時行(亀寿)は……

北条高時の嫡男・万寿(邦時)が五大院宗繁に裏切られ、悲しい最期を遂げたことについては昨日書いたが、今日はその異母弟の亀寿、のちに中先代の乱をおこす北条時行についてじゃ。

 

亀寿は生年不詳のため、正確な年齢はわからないけれど、兄の邦時が正中2年(1325年)の生まれだから、鎌倉が陥落した元弘3/正慶2年(1333)は、年がいっていたとしても7〜8歳ということになる。

新田義貞軍がいよいよ鎌倉へ攻め入ったとき、亀寿を信濃に落としたのは、得宗被官の諏訪盛高。

「古典太平記」によると、諏訪盛高は激戦をくぐりぬけ、北条一族の自害のお供をしようと、ワシの弟・泰家の屋敷に戻ってくる。

すると泰家は周囲の人を遠ざけ、盛高にこういった。

「此乱不量出来、当家已に滅亡しぬる事更に他なし。只相模入道殿(高時)の御振舞人望にも背き神慮にも違たりし故也。但し天縦ひ驕を悪み盈を欠とも、数代積善の余慶家に尽ずば、此子孫の中に絶たるを継ぎ廃たるを興す者無らんや」
「されば於我深く存ずる子細あれば、無左右自害する事不可有候。可遁ば再び会稽の恥を雪ばやと思ふ也。御辺も能々遠慮を回して、何なる方にも隠忍歟、不然ば降人に成て命を継で、甥にてある亀寿を隠置て、時至ぬと見ん時再び大軍を起して素懐を可被遂」

高時がいい加減だったから鎌倉は滅ぶけれど、それでも北条累代の積善からすれば、あとを継ぐ者さえいれば、きっと再興できる。だから、ここは生きのびて亀寿(後の北条時行)を守り、時至れば大軍をお越し、北条の家を再興しよう。

盛高は涙をこらえ、泰家のこの言葉に従うことにする。

「今までは一身の安否を御一門の存亡に任候つれば、命をば可惜候はず。御前にて自害仕て、二心なき程を見へ進せ候はんずる為にこそ、是まで参て候へ共、「死を一時に定るは易く、謀を万代に残すは難し」と申事候へば、兎も角も仰に可随候」 

盛高は亀寿のいる扇ヶ谷へと向かう。屋敷では、高時の愛妾・二位局がわが子の行く末を案じていたが、盛高は事が露見することを恐れて、こう告げる。

「此世中今はさてとこそ覚候へ。(北条家)御一門太略御自害候なり。大殿(高時)計こそ未葛西谷に御座候へ。公達(亀寿)を一目御覧じ候て、御腹を可被召と仰候間、御迎の為に参て候」
「若御(亀寿)も今日此世の御名残、是を限と思召候へ」

新田勢がここまで攻め入っている以上、狩り場の雉のように草むらに隠れていたところで、 敵に殺され、幼い骸を晒すよだけだ。それより高時の手にかかり、冥土のお供をさせることこそが忠孝である。

「武士の家に生まれた以上、平素からその覚悟はできていたはず」と、盛高は心を鬼にして、亀寿を抱き上げ、泣きすがる二位局を振り切り、声を荒げ、馬を走らせる。

「わつと泣つれ玉し御声々、遥の外所まで聞へつゝ、耳の底に止れば、盛高も泪を行兼て、立返て見送ば、御乳母の御妻は、歩跣にて人目をも不憚走出させ給て、四五町が程は、泣ては倒れ、倒ては起迹に付て被追けるを、盛高心強行方を知れじと、馬を進めて打程に後影も見へず成にければ、御妻、「今は誰を育て、誰を憑で可惜命ぞや」とて、あたりなる古井に身を投て、終に空く成給ふ」

あわれ二位局は、馬を追いかけて走っては転び、走っては転び……ついには悲しみのあまり、古井戸に身投げしてしまったと、「古典太平記」は伝えている。

ほんと、かわいそうなことをしてしもうた……

ちなみにこの後、時行(亀寿)は信濃の諏訪頼重に奉じられ、建武2年(1335)7月、鎌倉を奪還する。

そして足利尊氏に敗れると、後醍醐天皇より朝敵恩赦の綸旨を受けて南朝方として戦い
続け、北条得宗家の意地をみせるわけじゃが、そのあたりの話は、またいずれ。