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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

伊豆・蛭ヶ小島 源頼朝と北条政子の駆け落ち〜闇夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君が所に到る…

北条氏ゆかりの地・伊豆は韮山まで行ってきたぞ。伊豆は鎌倉から近いし、何度も行ってはいるけれど、いつも「今度来たときに立ち寄ろう」と素通りをくりかえし、ようやく訪問することができたというわけじゃ。
 
まずは源頼朝公流刑の地・蛭ヶ小島。現在は公園として整備されていて、園内には頼朝・政子夫妻の像と茶店が立っている。このあたり、周囲は水田で公園の辺りだけこんもり樹木があり、それで「蛭ヶ小島」という名前なのかなと勝手に推測したり。とはいえ、発掘調査では平安期の遺構が出てきたわけではなく、なんとなくこのへんで、頼朝公が流人生活を送っていたという程度のようだけど。
 
蛭ヶ小島

 源頼朝北条政子の駆け落ち

14歳の頼朝公がこの地に流されてきたのは永暦元年(1160年)3月11日のこと。源氏の御曹司だし、もちろん生活に困窮するようなことはなかったじゃろうが、ただひたすら一族の菩提を弔う、読経三昧の生活を過ごす。
そんな中、伊豆の豪族・北条時政の長女・政子殿と結ばれ、この地で長女・大姫が生まれている。

 

事実かどうかはかなり疑わしいけれど、「曽我物語」にふたりのなれそめが記されている。あるとき、政子殿の妹(後に阿野全成の妻、阿波局)が、日月を掌につかむ奇妙な夢を見る。それを聞いた政子殿は、「それは禍をもたらす夢なので、私に売りなさい」と勧めた。
そこで政子殿は、妹の夢を買いとり幸運を呼び寄せ、源頼朝と結ばれたという「夢買い」の逸話じゃ。じつは政子殿は、それが吉夢であると知っていたというんだから、このあたり、さすが後の尼将軍じゃのう。

さて、政子殿の父・時政公は京都から戻ると、留守中にふたりが恋仲になっていることを知って困惑する。平氏への聞こえもあるし、どうしたものか。そこで時政公は、政子殿と伊豆目代・山木判官兼隆との結婚を押し進め、ふたりを分かれさせようとした。

しかし政子殿は、そんなことではあきらめない。

山木への輿入れの日の夜、屋敷を抜け出し、山を越え、走って頼朝公の元へと逃げてきたのじゃ。そしてふたりは伊豆権現へと駆け落ちする。

君流人として豆州に坐したまうの比、吾においても芳契ありといへども、北条殿、時宣を怖れて、ひそかに引き籠めらる。しかれどもなほ君に和順して、闇夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君が所に到る。

後に、鶴岡八幡宮静御前義経殿を慕う舞を披露し、頼朝公が激怒したとき、政子殿はこのときの自分の話をもちだし、頼朝公をなだめたという。

で、まあ、こうしたこともあり、けっきょく時政は、ふたりの結婚を認めてしまう。あるいは時政公は、大番役で在京中に平氏の評判がすこぶる悪いことを目の当たりにして、その先行きの危うさを感じていたのかもしれぬ。

でも、この決断はかなり重い。現に同じ頼朝公の監視役だった伊東祐親は、娘・八重姫と頼朝公の間に生まれた子どもを、平家への聞こえをおそれて殺害している。なんだかんだいっても平清盛はまだ健在だし、平氏ににらまれては北条などひとたまりもないわけで。

それでも時政公は、頼朝公に懸けた。この政子殿の突拍子もない熱愛行動と時政の先見性、決断力がなければ、北条氏は伊豆の一豪族のままで終わっていただろう。

さすが、といわざるをえません。

かくして源頼朝が挙兵、山木兼隆を襲撃

はたして治承4年(1180年)4月27日、以仁王の令旨が伊豆の頼朝公のもとに届く。当初、頼朝は動かず、慎重に事態を静観する。心ははやったかもしれないが、所詮は伊豆に流された身、今の自分できることなど、たかがしれている。しかし平氏が令旨を受けとったた諸国の源氏追討に動きはじめるに至り、挙兵を決意するのじゃ。

かくして8月17日、三嶋大社の祭の夜、源頼朝はついに平家打倒の兵を挙げた。

 

最初の攻撃目標は、伊豆目代・山木判官兼隆。頼朝公にとっては、政子殿をめぐるいざこざの相手じゃ。

当初、襲撃は早朝を予定していたが、思わぬ洪水で佐々木兄弟の到着が遅れたことにより、決行は夜に変更となる。時政公は、この日は三島神社の祭礼であり、牛鍬大路は人が多く、襲撃に気づかれる可能性があるので、間道の蛭島通を行くことを進言する。

しかし頼朝公は、「思う所然りなり。但し事の草創として、閑路を用い難し。将又蛭島通に於いては、騎馬の儀叶うべからず。ただ大道たるべしてえり。」と命じ、北条時政安達盛長、佐々木定綱、経高,高綱ら頼朝軍は、山木館に向かって進発する。

襲撃の様子は「吾妻鏡」にこうある。

子の刻、牛鍬を東に行き、定綱兄弟信遠が 宅の前田の辺に留まりをはんぬ。(佐々木)定綱・高綱は、案内者を相具し、信遠(山木兼隆の後見役、堤信遠)が宅の後に廻る。経高は前庭に進み、先ず矢を発つ。これ源家平氏を征する最前の一箭なり。
時に明月午に及び、殆ど白昼に異ならず。信遠が郎従等、経高の競い到るを見てこれを射る。信遠また太刀を取り、坤方に向かいこれに立ち逢う。経高弓を棄て太刀を取り、艮に向かい相戦うの間、両方の武勇掲焉なり。経高矢に中たる。その刻定綱・高綱後面より来たり加わり、信遠を討ち取りをはんぬ。
北條殿以下、兼隆が館の前天満坂の辺に進み矢石を発つ。而るに兼隆が郎従多く以て三島社の神事を拝さんが為参詣す。その後黄瀬川の宿に至り留まり逍遙す。然れども残留する 所の壮士等、死を争い挑戦す。

屋敷に残った頼朝は、襲撃の成功を知らせる狼煙を待っていた。

放火の煙を見せしめんが為、御厩舎人江太新平次を以て、樹の上に昇らしむと雖も、良久しく烟を 見ること能わざるの間、宿直の為留め置かるる所の加藤次景廉・佐々木の三郎盛綱・ 堀の籐次親家等を召し、仰せられて云く、速やかに山木に赴き、合戦を遂ぐべしと。 手づから長刀を取り景廉に賜う。兼隆の首を討ち持参すべきの旨、仰せ含めらると。
仍って各々蛭島通の堤に奔り向かう。三輩皆騎馬に及ばず。盛綱・景廉厳命に任せ、彼の館に入り、兼隆が首を獲る。郎従等同じく誅戮を免れず。火を室屋に放ち、悉く以て焼亡す。
暁天に帰参し、士卒等庭上に群居す。武衛縁に於いて兼隆主従の頸を覧玉うと。
というわけで、山木館襲撃は見事に成功。翌19日、頼朝公は目代の政事を停止することを宣言し、山木兼隆の親戚・史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚での非法をやめさせる命令を発給。「吾妻鏡」は、これを頼朝公の「関東御施政の始まり」と記している。

それにしても山木判官兼隆は、損な役回りを演じさせられたものじゃ。山木兼隆は桓武平氏の庶流。もともとは京の検非違使だったが、父親ともめてにより伊豆国山木郷に流されてしまう。しかし、伊豆の国主・平時忠になぜか気に入られ、伊豆国目代に任ぜられる。平時忠は、有名な「平家にあらずんば人にあらず」という言葉を残した人、兼隆も伊豆での鼻息もさぞや荒かっただろう。

そんな中での政子殿の事件、兼隆のめんぼくはまるつぶれ。兼隆は兵をさしむけるものの、伊豆権現に庇護された頼朝公と政子殿には手を出せなかったらしい。そして、頼朝公に襲撃された夜は三島大社の祭礼で、郎党のほとんどが留守だったため、兼隆は加藤景廉に討ちとられてしまう。

ついてない……じつについてない。なんか、歴史に翻弄されたというか、生け贄になったというか……
 
 
かくして、ここから富士山を眺めては読経三昧の日々を送ってい源頼朝公の下に、伊豆・相模の武士団300人が結集する。頼朝公は彼らを率いて相模国に押し出し、石橋山に兵をあげる。
また、伊豆の小豪族にすぎない北条氏にとって、乾坤一擲の勝負がはじまったわけだけど、長くなったので今日の講釈はこのへんで。