北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

牧氏事件~北条義時公はなぜ、父・時政を追放したのか

得宗の祖・義時公が父・時政公を追放した「牧氏事件」。時政公失脚の原因をみていくと、そこには前妻の子であった政子殿や義時公と、後妻の牧の方の軋轢が見え隠れする。

北条義時

北条義時

頼朝公の死後、義時公は父・時政公、姉・政子殿らとともに、鎌倉の安定と北条氏の地位向上につとめていた。梶原景時比企能員ら有力御家人をつぎつぎと追い落とし、思うようにならない2代将軍・源頼家公を伊豆に幽閉し、実朝公を3代将軍につけるなど、北条氏の政権基盤を着々と固めて行く。ただ、その後、義時公と時政公との関係は微妙に悪化していく。今回はその過程を追いかけてみたい。

時政・義時父子と「亀の前事件」

義時公と時政公の確執を考えるうえでは、まず、時政公の継室・牧の方の話からはじめねばなるまい。政子殿は時政公の前妻(系図には「伊東入道の娘」とある)の子じゃが、時政公は後妻に牧宗親の娘(妹とも)牧の方を迎え、北条政範平賀朝雅室、三条実宣室、宇都宮頼綱室を設けている。ちなみに牧宗親はかつて平頼盛に仕え、北条の本拠に近い駿河国大岡牧(現静岡県沼津市)を領有していた。

嫡男・頼家公が生まれる頃、頼朝公は愛妾・亀の前を伏見広綱宅に置いて寵愛していた。すると牧の方はこれを政子殿に伝え、怒った政子殿は、牧の方の父・宗親に命じ、広綱宅を破壊するという事件を起こす。頼朝公は激高し、呼び出された宗親は叱責され、髻を切られるという恥辱を受けてしまう。すると今度は、舅への酷い仕打ちに時政公が激怒し、一族を率いて伊豆へ立ち退いてしまった。

これが「亀の前事件」だが、『吾妻鏡』11月14日の記載によれば、このとき義時公は父に従わず鎌倉に残ったことで、頼朝公から称賛されたという。

宗親奇怪を現すに依って勘発を加うの処、北條欝念に任せ下国するの條、殆ど御本意に違う所なり。汝吾が命を察し、彼の下向に相従わず。殊に感じ思し食すものなり。定めて子孫の護りたるべきか。今の賞追って彼に仰せらるべしてえり。江間殿是非を申されず。畏り奉るの由を啓し、退出し給うと。 

冷静な義時公は、こんなしょうもないことで頼朝公の心証を悪くするのは得策でないことをよくわかっていたんじゃろう。なお、この後の詳細は『吾妻鏡』の記載が欠落していてはっきりしないが、時政公は鎌倉に戻ってきてこれまでどおり出仕しているので、とくにどうということはなかったように思われるが、時政公と義時公の微妙なすれ違いがはじまっていたのかもしれぬ。

というのも、牧の方と時政公の間には政範がいた。政範は若年にして従五位下を与えらたが、これは義時公と同じ位階である。このことからも時政公は政範に北条家を継がせようと考えていたことはまちがいなく、義時公は内心、おもしろくなかったのかもしれない。

牧の方の讒訴による「畠山重忠の乱」

頼朝公亡き後、父子関係は、時政による畠山重忠の謀叛でっち上げで悪化する。

源実朝公と坊門信清の娘との婚姻が決まったとき、時政公と牧の方の期待を一身に集めていた北条政範は、そのお迎えの使者として京都に赴いた。このとき、やはり随行していた牧の方の娘婿・平賀朝雅が、畠山重忠の子・重保と酒宴でささいなことから言い争いになる。この事件そのものは周囲のとりなしですぐに収まったんじゃが、その直後、なんと、政範が病にかかり急死してしまうのじゃ。

鎌倉の時政公と牧の方には、先の口論の一件と政範の急死の報せがもたらされる。最愛の息子を失い、悲しみにくれる牧の方に、平賀朝雅は畠山重保から悪口を言われたと愚痴をこぼした。そこで、牧の方は畠山重忠に謀叛の疑いがあると、時政公に讒言したのじゃ。

畠山重忠は、秩父氏が代々継承してきた武蔵国の武士団を統率する「武蔵総検校」という名誉ある立場にあった。梶原景時の変、比企能員の変ではいずれも時政公北条に協力してくれていた。しかも重忠は前妻の娘婿でもある。高潔な人柄は頼朝公の信望も厚い重忠が謀反を企てるなど、時政公も牧の方の讒言を信じたりはしなかっただろう。

しかし、この頃、時政公と畠山重忠の間には軋轢が起こり始めていたのも事実である。もともと武蔵国は将軍によって国司が推挙される関東御分国(将軍家知行国)の一つであったり、この頃の武蔵国司は平賀朝雅であった。時政公はその後見役で、朝雅が京都守護のため上洛した後は、実朝公の命によって武蔵国衙の行政権を任されていた。そのため、時政公にとって、畠山重忠とその一族は、目の上のたんこぶともいえる存在でもあった。

北条時政

北条時政

前妻の娘婿か、後妻の娘婿か、時政公も悩んだのかもしれぬ。じゃが、ここで畠山重忠を葬ってしまえば、時政公の地位は盤石となる。かくして、時政公は重忠討伐を決意する。

このとき、義時公は重忠追討に反対したという。

「今何の憤りを以て叛逆を企つべきや、もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし」

それに対して牧の方は、「私が後妻だから私を信用しないのか」とつめよる。

「重忠謀叛の事すでに発覚す。 仍って君の為世の為、事の由を遠州に漏らし申すの処、今貴殿の申さるるの趣、偏に 重忠に相代わり、彼が奸曲を宥められんと欲す。これ継母の阿党を存じ、吾を讒者に 処せられんが為か」

かくして義時公は追討軍に加わるのじゃが、重忠討伐後、「然れば謀反を企てる事すでに虚誕たり」と時政公を公然と批判している。

「牧氏事件」により時政が失脚

首尾よく畠山重忠を討った時政公と牧の方じゃが、元久2年(1205年)7月、今度はその2人に謀反の疑惑が浮上する。なんと、源実朝公を廃して平賀朝雅を新たな将軍として擁立しようと画策しているというのじゃ。牧氏事件である。

牧の御方奸謀を廻らす。朝雅を以て関東の将軍と為し、当将軍家(時に遠州亭に御座す)を謀り奉るべきの由その聞こえ有り。仍って尼御台所、長沼の五郎宗政・結城の七郎朝光・三浦兵衛の尉義村・同九郎胤義・天野の六郎政景等を遣わし、羽林を迎え奉らる。即ち相州亭に入御するの間、遠州召し聚めらるる所の勇士、悉く以て彼の所に参入し、将軍家を守護し奉る。同日丑の刻、遠州俄に以て落餝せしめ給う(年六十八)。同時に出家するの輩勝計うべからず。

このとき義時公と政子殿は協力して三浦義村を味方にひきいれ、時政邸にいた実朝公を義時邸にうつした。時政公も急ぎ兵を集めて対抗しようとしたのじゃが、義時公の手際のよさに間に合わなかった。

かくして時政公は出家のうえ、伊豆へ追放されることになる。

以上が『吾妻鏡』にある義時公による父・時政公追放のあらましじゃが、こうしてみると、悪妻に引きずられておかしくなったお父ちゃんを、やむなく娘と息子が追放したという構図のようじゃな。

さすがに時政公はやりすぎた。これはもう追放されて当然じゃろう。

もちろん、『吾妻鏡』は鎌倉時代の正史だから、義時公を正当化するために、かなりの脚色があるといわれている。この一連の事件も、じつは不遇になりつつあった後妻の子が仕組んだクーデターだった、という歴史家の見方もあるやに聞く。

たしかに、畠山重忠の乱と牧氏事件、さらにはその後の和田合戦、実朝公暗殺、承久の変など、最終的な利益はぜんぶ義時公にもたらされているから、こういう言われ方をするのは仕方がないかもしれん。

事の真偽はわからないが、時政公と義時公は、たしかにタヌキとキツネの感がある。そしてなんといってもラスボスは政子さま。草創から陰気でブラックな鎌倉北条氏の印象はぬぐえそうにない。

いずれにせよ、義時公がかなりのやり手であったことはまちがいない。頼朝公というカリスマ亡き後、やはり義時公くらいの器量がなければ鎌倉は守れなかったことだけは確かじゃ。

このあたり、小栗旬さんが「鎌倉殿の13人」でどんな義時公を演じてくれるか、今から楽しみである。