鎌倉ではたらく太守のブログ

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伊豆の北條寺〜北条義時が父・時政を追い落とした件

伊豆長岡は江間にある北條寺。二代執権北条義時公が創建した寺院で、本尊は1200年以前も前から江間に伝わり、源頼朝公が巡祥し、北条時政公が挙兵のおりに願をかけた観音像じゃ。

義時公の嫡男・安千代が大蛇に襲われ落命した折に墓所とし、寺号を万徳山北條寺と改め七堂伽藍を建立し、運慶に命じてつくらせた阿弥陀如来像が寺宝として伝わっている。

境内の小四郎山には義時公と後妻の伊賀の方の墓所がある。

北條寺 北条義時の墓

義時、亀の前事件で頼朝の信頼を得る

北条義時公は時政公の次男、政子殿の弟で江間小四郎と称した。
石橋山の戦いで兄の宗時公が討死したことから、頼朝公の側近として「家子の専一」とよばれるようになり、その信頼も厚かった。
頼朝公にしてみれば、うるさい舅のおやじ・時政公よりも、義弟義時公のほうが、つきあいやすかったのかもしれんのう。

頼朝公の信頼を確実にしたのは、例の亀の前事件じゃ。
頼朝公が伊豆時代からかこっている愛妾を鎌倉につれてきていることを、時政公の後妻・牧の方(←けっこうよけいなことする人)が政子殿にチクったのがそもそもの発端じゃ。

当時は一夫多妻がふつうじゃったが、そんな理屈は激情家の政子殿には通用しない。
また、このとき政子殿は源頼家公を身ごもっており、情緒不安定だったのかもしれぬ。嫉妬にかられた政子殿は、牧の方の父・牧宗親に命じ、亀の前が住む伏見広綱の屋敷を襲撃させ、亀の前は命からがら逃げ出した。

これを聞いた頼朝公は大激怒、牧宗親を呼び出し叱責する。
宗親は平伏して詫びたが、頼朝公は腹の虫が収まらず、宗親の髻を切って辱めた。
すると今度は、時政公が収まらない。
舅の宗親へのあまりに酷い仕打ちに、時政公は一族をつれて伊豆へ引き上げてしまい、単なる夫婦喧嘩は、鎌倉中を巻き込む大騒動に発展していったのじゃ。

なんとも珍妙な事件で、みながみな株を下げたんじゃが、このとき義時公は時政公に従わず鎌倉に残り、頼朝公はこれを大いに称賛したという。

その後も冷静でそつのない義時公は、源平の合戦や奥州藤原氏攻めでもそれなりの武功を上げる。
そして頼朝公が上洛する頃には、「家臣の最となす」といわれるまでに、その信頼を確固たるしたものにしたのじゃ。

 

義時、畠山重忠謀叛でっちあげ事件で、時政・牧の方と口論

頼朝公の死後、義時公は父・時政公、姉・政子殿らとともに、北条氏の地位向上につとめている。
梶原景時比企能員ら有力御家人をつぎつぎと追い落とし、将軍・源頼家を伊豆に幽閉し、北条氏の政権基盤を着々と固めて行くわけじゃが、ただ、その過程で義時公と時政公との関係は微妙に悪化していくのじゃ。

義時公と政子殿は時政の前妻(系図には「伊東入道の娘」とある)の子だが、時政は後に京都の公家出身の牧の方を妻に迎えている。
この牧の方は、権勢欲の強い女性として後世すこぶる評判が悪い。政子殿に亀の前のことをチクったのも、この牧の方だ。

そんな牧の方と時政公の間には政範という子がいた。政範は若年にして従五位下を与えられ、官位は義時公と同じ。
こうしたことから、時政公は政範に北条家を継がせようとしていたともいわれて、義時公も内心、おもしろくなかったんじゃろう。

微妙な父子の関係は、畠山重忠の謀叛でっち上げ事件、牧の方事件でついに決裂する。

源実朝公と坊門信清の娘との婚姻が決まったとき、政範はそのお迎えの使者として京都に赴く。
そのとき、随行していた源氏門葉で牧の方の娘婿の平賀朝雅が、畠山重忠の子・重保と酒宴でささいなことから言い争いになった。
この事件そのものは周囲のとりなしですぐに収まったんじゃが、その直後、政範が病にかかり急死してしまったのじゃ。
鎌倉の時政公と牧の方には、先の口論の一件と政範の急死の報せが、同時にもたらされる。

最愛の息子を失い、悲しみにくれる牧の方に、平賀朝雅畠山重忠に謀叛の疑いがあると讒言する。
また当時、平賀朝雅とその後見人でもあった北条時政公にとって、有力御家人の畠山重忠は、武蔵国の支配をめぐって目のうえのたんこぶともいえる存在だった。
そこで、時政公は畠山重忠の追討を決めるのである。

そのとき、義時公は重忠追討に反対したという。

「今何の憤りを以て叛逆を企つべきや、もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし」

それに対して牧の方は、「私が後妻だから私を信用しないのか」とつめよる。

「重忠謀叛の事すでに発覚す。 仍って君の為世の為、事の由を遠州に漏らし申すの処、今貴殿の申さるるの趣、偏に 重忠に相代わり、彼が奸曲を宥められんと欲す。これ継母の阿党を存じ、吾を讒者に 処せられんが為か」

かくして義時公は追討軍に加わるが、重忠討伐後、「然れば謀反を企てる事すでに虚誕たり」と時政公を公然と批判している。

義時公、父を追放し、実権を握る

元久2年(1205年)7月、時政公と牧の方に疑惑が浮上する。源実朝公を廃して平賀朝雅を新たな将軍として擁立しようとしたというのじゃ。
このとき義時公と政子殿は協力して三浦義村を味方にひきいれ、時政邸にいた実朝公を義時邸にうつした。
時政公も急ぎ兵を集めて対抗しようとしたのじゃが、義時公の手際のよさに間に合わず、けっきょく出家のうえ、伊豆へ追放されることになった(牧氏事件)。

とまあ、以上が「吾妻鏡」にある義時公による父・時政公追放のあらましじゃ。
要するに、悪妻に引きずられておかしくなったお父ちゃんを、やむなく娘と息子が追放したというわけじゃな。

ちなみに『吾妻鏡』は鎌倉時代の正史だから、北条義時公を正当化するために、かなりの脚色があるといわれているようじゃ。
この一連の事件も、じつは不遇な後妻の子が仕組んだクーデターだった、という歴史家の見方もあるやに聞く。
じっさい、畠山重忠の乱と牧氏事件、さらにはその後の和田合戦、実朝公暗殺、承久の変など、最終的な利益はぜんぶ義時公にもたらされている。
そもそも時政公と義時公は、まさにタヌキとキツネ。そしてラスボスが政子殿。草創から、陰気でブラックな鎌倉北条氏、というわけじゃ。

まあ、否定はしないけどね。たしかに義時公はやり手だったと思うよ。

思いのほか、長くなったので、今日はこのへんで。

 

北條寺