鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

伊豆の北條寺〜北条義時公と伊賀の方夫妻のお墓に行ってきたよ

前回の北條寺へ北条義時公のお墓参りに行った話のつづき。

 

境内の小四郎山への階段をのぼっていくと、義時公と後妻の伊賀の方の墓所がある。
義時公の墓といえば、鎌倉の法華堂があり、遺構が発掘されているが、こちらのお墓は泰時公によってつくられたものだそうじゃ。

北条義時・伊賀の方夫妻の墓

北条義時の最初の妻・姫の前

義時公の最初の妻は比企朝宗の息女・姫の前。源頼朝公の大倉御所に勤める官女だった。『吾妻鏡』によれば、それはそれは美しい女性だったらしい。

当時権威無双の女房なり。殊に御意に相叶う。容顔太だ美麗なり

義時公は姫の前にひたすらラブレターを書き続ける。このあたり、いかにも粘着、いや、ねばり強いイメージの義時公らしいところだけれど、それでも姫の前は義時公にはふりむかなかったようじゃ。
けっきょく、それを見かねた頼朝公が、義時公に「絶対に離縁しません」という起請文を書かせたうえで、ふたりの縁をとりもったとか。
こうして姫の前は義時公に嫁ぎ、次男・朝時、三男・重時を産んでいる(ちなみに3代執権となった泰時公の母は、側室の阿波局)。

じゃが、こうまでして結ばれたふたりの仲は、頼朝の死後、比企能員の変で引き裂かれてしまうんじゃ。義時公は時政公の命令で、比企能員の館を攻めており、これにより起請文は反故、ふたりは離婚する。
そしてこの後、義時公は伊賀朝光の娘(伊賀の方)と再婚。後に7代執権となる政村のほか、実泰、時尚、一条実雅室が生まれている。また姫の前も京都で再婚し、余生を静かに暮らしたという。

義時は後妻の伊賀の方に毒殺された?

で、こちらの北條寺で、義時公といっしょに眠っているのが伊賀の方。むかって右側が義時公、左が伊賀の方のお墓じゃ。
ふたり仲睦まじく、小四郎山の高台から江間の地を眺めているようにみえるけど……やはり、暗い、陰湿な北条家の二代目、いろいろ噂があるようじゃ。

 

義時公は、元仁元年(1224)年6月18日、62歳で急死している。『吾妻鏡』では死因は衝心脚気としているが、あまりにもとつぜんの死だったために、「北条義時は暗殺された!」と、当時からさまざまな噂があったようじゃ。

たとえば『保暦間記』には「近習の小侍に刺し殺された」とある。

左京大夫義時(時に六十三歳)思いの外に近習に召仕ける小侍につき害されけり。さしも十善帝王だに居ながら打勝進せしかども、業因遁れ難き事、都て疑うべからず」

また、藤原定家の『明月記』にはとんでもない風聞が記されているんじゃ。

承久の乱の後、京方の首謀者の一人として逃亡していた法印尊長が捕らえられた。尊長は義時の伊賀の方の娘を室に迎えた一条実雅の兄。六波羅探題で尋問を受けたとき、苦痛に耐えかねて、こういったらしい。

「只早頚をきれ。若不然は、又、義時が妻が義時にくれけむ薬、われに是くはせて早ころせ。今から殺されるというのに嘘などつかぬ!」

尊長は、義時が妻の伊賀の方に毒殺されたことを告白したというんじゃよ。火のないところに煙はたたず……というけれど、真実はもは歴史の闇の中……ということで。

 

やっぱり気になる「伊賀氏の変」

ここでやっぱり気になるのは「伊賀氏の変」。義時公の死去により、伊賀の方とその兄・伊賀光宗が、伊賀の方の実子・政村の執権就任と、娘婿・一条実雅の将軍職就任を画策したという事件じゃ。

当時、まだ影響力を保持していた尼将軍の政子殿は、泰時公と時房公を御所に呼び、執権と連署に任命する。いっぽう光宗らは、政村の烏帽子親である三浦義村を引き込んで泰時公を討つ計画をたてるが、政子殿は先手を打って義村邸に赴き、義村を味方にとりこんでしまった。

こうして伊賀の方は伊豆へ、光宗は信濃へ、実雅は越前へ、謀反人として流されてしまうわけじゃが、じつは政子殿は伊賀氏の影響力が大きくなることを危惧し、事件をでっちあげたのでは?ともいわれている。

すべてを知っているのは、泰時公だけ? 泰時公は北条氏の中では珍しく謙虚ないい人のような印象があって、後に政子殿が没すると、泰時公は伊賀光宗の所領を回復して、評定衆に任命している。
やはり、これは濡れ衣だったのか。そのあたりはよくわからんが、いずれにせよ鎌倉北条氏って、やっていることが暗いのう……(ボソッ)
ちなみに、義時が生まれ育った江間を守山から眺めると、こんな感じであります。