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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

宮様らしからぬ気骨の人…大塔宮・護良親王のこと

太平記

今日は大塔宮こと護良親王のことじゃ。たしか大河ドラマ太平記」では堤大二郎さんが演じていたはずじゃ。

護良親王

 護良親王(もりよししんのう / もりながしんのう)は、延慶元年(1308)、後醍醐天皇(まだ天皇じゃなかったけど)の皇子として生まれる。

御幼稚の時より利根聡明に御坐せしかば、君、御位をば此宮にこそと思食したりしかども、御治世は大覚寺持明院と代々持せ給べしと、後嵯峨院の御時より定められしかば……「太平記
文保の和談で大覚寺統持明院統の間で皇位継承の約束は決まっているわけで、護良親王天皇になる目はない。
ということで、護良親王6歳のとき、尊雲法親王として天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入ることになる。
ちなみに大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたからで、正中2年(1325)には門跡を継承し、門主となっている。

その後、討幕の決意を固めた後醍醐天皇は、護良親王を2度にわたり天台座主として送り込む。もちろん、比叡山の兵力を期待してのもので、そのことは護良親王も百も承知
今は行学共に捨はてさせ給て、朝暮只武勇の御嗜の外は他事なし。御好有故にや依けん、早業は江都が軽捷にも超たれば、七尺の屏風未必しも高しともせず。打物は子房が兵法を得玉へば、一巻の秘書尽されずと云事なし。
太平記』によると、護良親王は武芸を好み、日頃から自ら鍛練を積んでいたとある。
戦の準備を万端整え、決起のときを待っていたのじゃろう。
以後、令旨を発して反鎌倉勢力を募り、十津川、吉野、高野山などを転戦していくことになる。
ある意味、鎌倉幕府にとっていちばん厄介だったのは、この宮のゲリラ戦だったかもしれぬ。この宮さえいなければ、後醍醐天皇隠岐に流した時点で、宮方の勢力は減衰したし、楠木正成もあんなにがんばることはできなかったじゃろう。
 
建武政権が成ると、護良親王天皇の政権を簒奪するのは足利尊氏とにらみ、大和信貴山に兵を集める。
太平記」によれば、後醍醐天皇はこれを諌め、比叡山に戻り、天台座主の仕事を全うするよう護良親王に命じるが、「今、尊氏を討たねば北条高時以上の勢力をもちかねない」と、聞く耳を持たない。
「今四海一時に定て万民誇無事化、依陛下休明徳、由微臣籌策功矣。而に足利治部大輔高氏僅に以一戦功、欲立其志於万人上。今若乗其勢微不討之、取高時法師逆悪加高氏威勢上に、者なるべし」
こうした中、足利尊氏は先手を打つ。天皇が寵愛する阿野廉子と組んで、「大塔宮は皇位を簒奪するため兵を集めている。その証拠は明らか」 と奏聞。が諸国に発した令旨を差し出し、その追い落としに見事に成功する。
もっとも、足利びいきの「梅松論」では、 護良親王の計画は天皇の意志に沿うものだったが、尊氏に尋問されて天皇は宮に罪をなすりつけた」 とあり、事の真偽はわからない。

いずれにせよ、建武元年、後醍醐天皇護良親王を召し出し、御所へ参内したところを捕縛する。まさに青天の霹靂だったじゃろうが、護良親王身柄を尊氏の弟・足利直義に預けられ、鎌倉に幽閉されてしまうのじゃ。

そして翌年、わが子・北条時行が兵を挙げ、鎌倉を落とすと(中先代の乱)、幽閉中の護良親王足利直義に殺されてしまう。
直義は、時行が前征夷大将軍の宮を奉じて、執権政治をはじめることを危惧したといわれているが、たんに邪魔だったんじゃろう。
その後、時行軍が鎮圧されると足利尊氏後醍醐天皇の対立は決定的となり、時代は南北朝の動乱に突入、後醍醐天皇は吉野へと逃れるはめになる。
「ほれみたことか!」という護良親王の声が聞こえてきそうじゃよ。

じっさい、「太平記」には、後醍醐天皇の討幕計画に連座して鎌倉幕府に捕縛された峯の僧正・雅法師、智教上人、忠円僧上らといっしょに護良親王が怨霊となって登場し、尊氏と直義を仲違いさせ、足利家を滅ぼそうと、酒を飲みながら談じる場面が描かれている。
「さても此世中を如何して又騒動せさすべき」 
「其こそ最安き事にて候へ。先左兵衛督直義は他犯戒を持て候間、俗人に於ては我程禁戒を犯さぬ者なしと思ふ我慢心深く候。是を我等が依所なる大塔宮、直義が内室の腹に、男子と成て生れさせ給ひ候べし。又夢窓の法眷に妙吉侍者と云僧あり。道行共に不足して、我程の学解の人なしと思へり。此慢心我等が伺処にて候へば、峯の僧正御房其心に入替り給て、政道を輔佐し邪法を説破させ給べし。智教上人は上杉伊豆守重能・畠山大蔵少輔が心に依託して、師直・師泰を失はんと計らはれ候べし。忠円は武蔵守・越後守が心に入替て、上杉畠山を亡ぼし候べし。依之直義兄弟の中悪く成り、師直主従の礼に背かば、天下に又大なる合戦出来て、暫く見物は絶候はじ」 
「いしくも計ひ申たる哉」その後、足利尊氏と直義が袂を分かち、観応の擾乱という足利家中の大騒動がおこることは周知の通り。
護良親王は宮様らしからぬ気骨の人であったようで……怨霊、恐るべし、くわばらくわばら。