鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

梶原景時追放—コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ

今日は少しお散歩の足を伸ばして、梶原御霊神社へ。

ちなみに鎌倉には御霊神社はもうひとつあるが、この御霊神社を建立したのは梶原景時祭神は梶原氏の祖で後三年の役で奮戦した武勇の人・鎌倉権五郎景政。じつは、長尾景虎上杉謙信)の長尾氏が、この系譜であったりするんじゃよ。

さて、梶原景時のこと。景時といえば、石橋山の合戦で敗れ、山中の洞穴にかくれていた源頼朝を助けた逸話が有名じゃが、源義経殿の悪口をいいまくり、彼を死に追いやった「大悪人」としても知られている。

しかし、ほんとうのところはどうだったんじゃろうか。少なくとも源頼朝公にとっては股肱の臣だったし、その息・源頼家公のことも懸命に支えていた忠臣だったはず。実務能力がたいへん高い官僚タイプで、おそらく坂東武者には珍しいタイプだったのではないかと。

ただ、こういうエリートタイプって、石田三成なんかと同様で、どうしても鼻持ちならないというか、いけ好かんというか、ほうぼうがら疎まれるようじゃ。『吾妻鏡』には、景時が結城朝光を讒訴したことが原因で、景時に対する御家人の不満が爆発、頼家はそれをおさえられず景時は失脚した、とある。

ただ『玉葉』によると、その讒訴の内容は、頼家公に代えて千幡君(のちの源実朝)を将軍にすえようという動きがあることを報告したものだとも。

事実、その3年後には頼家公は暗殺され、実朝公は将軍となる。また和田義盛、畠山重忠ら有力御家人たちはつぎつぎに粛正され、わが北条家は政治の実権を握っていく。

このあたり、どこまで計算づくだったのかはわからないけれど、うるさい景時がいなくなったことは北条にとっては好都合だったはず。

比企と梶原の両方が健在だったら、そうそう露骨なことはやりにくいからね。慈円は『愚管抄』で景時を庇えなかったのは頼家の「不覚」と結論づけているし。

コレヨリ先ニ正治元年ノ比。一ノ郎等ト思ヒタリシ梶原景時ガ。ヤガテメノトニテ有ケルヲ。イタク我バカリト思ヒテ。次次ノ郎等ヲアナヅリケレバニヤ。ソレニウタヘラレテ景時ヲウタントシケレバ。景時國ヲ出テ京ノ方ヘノボリケル道ニテウタレニケリ。子ドモ一人ダニナク。鎌倉ノ本躰ノ武士カヂハラ皆ウセニケリ。コレヲバ頼家ガフカクニ人思ヒタリケルニ。ハタシテ今日カカル事出キニケリ。

ちなみに、梶原一族は鎌倉を追放され、京に向かう途中、駿河国で討伐されてしまう。梶原景時とその一族は、この神社の近くの深沢小学校に眠っている……合掌。