鎌倉ではたらく太守のブログ

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恐れ乍ら、謹んで申し上げ奉り候…河井継之助の太政官建白書

昨日の鳥羽伏見の戦いに関連して、今日は河井継之助太政官建白書について少々。
王政復古から鳥羽伏見まで、なんとなくみんなが時勢に流されていく印象がある中、ひとつの見識をもって事にあたった幕府側の人物といえば、越後長岡藩の河井継之助じゃろう。
鳥羽伏見の戦いで長岡藩はわずかな藩兵を率いて大阪玉津橋の警護にあたっているが、それに先立つ慶応3年12月、継之助は藩主牧野忠訓とともに上京。藩主の名代として太政官建白書を朝廷に提出している。

 河井継之助太政官建白書

この建白書は、継之助が徳川家の救解を願って決死の覚悟で提出したもので、なによりも内戦を回避したいという信念がうかがえる。
もちろん、たかだか7万5000石の小藩が、朝幕間を周旋しようと建白したところで、時勢を動かせないことは継之助自身がよくわかっていたじゃろう。ただ、この緊急事態に拱手傍観することは、徳川譜代の家として義理を欠き、また王臣としても道に背くことになる。事の成否云々ではなく、「なすべきことをなす」という思考と行動は、いかにも陽明学徒・河井継之助らしいところじゃ。

原文は大変な長文ですが、少しだけ抜粋して紹介する。

建白書は「恐れ乍ら、謹んで申し上げ奉り候」 建白書はそう書きはじめ、いきなり牧野氏は徳川家の臣下であり、朝廷からの直接の命令は儀礼上も問題があり、はなはだ迷惑だと言い放つ。

今般、朝廷より召させられ、有難き御事に存じ奉り候得共、陪審、疎賤の身分、御勅命を蒙り候は、唯々徳川氏への斟酌のみの儀には之れ無く、朝廷に対し奉り、礼儀をも失い、恐入り候儀と、進退迷惑仕り候。

続いて、大政奉還を朝廷がすぐに許したのは大事件であり、そのため世情の騒がしさも万民も苦しみも、すべてそこからきているとし、そのために建白にやってきたと記している。

如何にも御政権奉還の儀、御内意奏聞の旨には候得共、不日に勅許之れ有り候御事柄、此上無き大事件、容易に御取扱遊ばされ候様、上下挙げて驚愕仕り、天上争乱、万民塗炭に苦み候も是自り起こり候儀、顕然と存じ奉り候得ば、彼是斟酌仕り候も、不忠の儀と、恐れを顧みず、上京建言奉り候。


そして、保元以来の武家政治の正当性と徳川家の功績を訴え、そのうえで薩長両藩を暗に姦雄とし、激越な非難が続きます。

殊に嘉永以来、外国渡来、和戦の両議より、公武の御間柄、彼是を生じ、時論定まらず。姦雄其虚に乗じ、巧に尊王の名を借り、浮浪の激徒、深長の慮なく、狂暴醸乱、幾人と無く悲命に陥候次第、慷慨決死の心底は、憐れむ可き事に候得共、全く一心の私憤に出で、義理の当然、国家治安の道を弁えず、上を犯すを好まずして、乱を作すを好むも者未だ之れ有らずと、浩嘆の至に御座候

さらに幕府にできもしない攘夷を迫った者たちを非難し、それを支持した朝廷に対しても率直に反省を求めている。

始め攘夷を唱え候者も、反て彼と和親に及び、今日の形成、彼らに攘夷の出来ざるは分明仕り候儀、然らば則ち朝廷にも、先後の御命令、御通徹と申す御儀にも之れ無く、恐れな乍ら御反省在らせらる可き御事と存じ奉り候。総て朝議より出で候のみにも之れ有る間敷く、尊王の名に托し、攘夷攻戦を唱え候輩より、多くは此に至り候儀と恐察し奉り候。是等の人民、唯今に至り、猶お攘夷を唱え候や。自己の明暗を省みず、先後の反復を恥じずして、猶お徳川氏のみに責を帰し候は、仁義有道の人と申す可きや。 

そして関西と関東との間で戦が生じることを懸念し、それを治められるのは徳川家をおいて他にないと説く。

親藩譜代も追々発奮仕り候様相い成可く、しからば則ち、関西の武士、必強と申す訳にも之れ無く、関東の者、弱に終わるの理も之れ無く、多勢の中、必ず人傑も生ず可く、四分五裂に至り候得ば、天下の心、徳川氏の恩沢を思い出し候わんか。他に誰人を思し申す可きや。

そのうえで、徳川家の疲弊は日本の疲弊であり、今一度、大政を徳川家に委任するよう訴えている。

富国強兵、皇国治安の御命令、先年より度々之れ有り、有難き御事には御座候得共、太平倫情の風習中々以て急速の改む可きに之れ無く、内外多難の時に当り、国是未だ定まらず、政令未だ整わざるや、仮令有難き御命令に御座候得共、緩急其の宜を得られざる処之れ有り候ては、其名甚だ実なりと雖も、其実は徳川氏の疲弊、随って天下の諸侯、無益の奔命に疲れ、無用の財力を費し候儀、外国のみの儀に之れ無く、公武の御齟齬より出で候儀にも之れ有る可きや。皇国第一大なる徳川家の疲弊は、其疲弊は、其疲弊に非ずして皇国の疲弊なるを、能々御了解遊ばされず候ては、弥々覬覦軽侮を受けられ候様相い成る可く、篤と叡慮を尽くされ、漸時、尊崇の虚名を御祝なく、万民塗炭の苦を御憂慮在らせられ、任じて疑うは乱の階なるを御鑑み、是迄の通り徳川氏へ御委任在らせられ候より、治安の道は之れ無き儀と存じ奉り候

そして末尾には、決死の覚悟で建白に及んだ心情を次のように記している。

天下万民の安危に係り候御儀、罪を懼れ、死を逃れ、黙止罷在り候も、皇国有生の道に背き申す可しと、及ばずながら決死極諫、無量の御高恩、万分の一をも報い候得ば、死も猶おせいに勝り候儀と、恐れを顧みず申上げ奉り候。

継之助は、この建白書を携えて御所の議定所に参内し、長谷三位と辻少納言にその趣旨を説明する。しかし、ふたりにはなんの反応もなく、継之助は虚しく大坂城へ引き上げることになる。

河井継之助板倉勝静に東帰を進言するも容れられず

継之助が大坂城に帰着した日、城内は「薩摩討つべし!」で沸きかえっていた。そこで継之助は老中・板倉勝静と面会。薩長軍との即時開戦を不可とし、江戸へ戻って後図を策すよう進言する。しかし、この進言は結果的に受け入れられなかった。

司馬遼太郎さんの『峠』では、その場面をつぎのように描写している。

(このひとはダメだ)
と、継之助は思った。先刻からきいていると、徳川政権をとりまく苛烈な政治情勢や事件につき、首相として身の痩せるほどにはなやんでいる。その情勢のつかみかたもたしかで、分析もするどい、しかし、それだけである。
(身を捨ててない)
「これ以上は関東に」
「それができぬのだ」
板倉勝静は、泣くように叫んだ。なぜならばこの場内の開戦派の沸騰ぶりでは、もはやその程度のことばで鎮静させることはできない、という。要するに一令をもって鎮静せしめるだけの権威が徳川慶喜にもなく、それだけの政治力のもちぬしが自分たち閣僚の中にもない、と板倉はいうのである。

会津藩の南摩綱紀は、後にこの当時のことを回想し、「継之助、真に東北の一豪傑、若し慶喜をして、その説に従わしめば、兵を伏見に出さず。則ち内乱起らず。人民死傷せず、財貨濫費せず、国力衰耗せず。而れども其の説行われず。嗚呼命か、惜しいかな」と記している。しかし、慶喜にも勝静にも、もはやその力がないというのじゃ。

それならば ――『峠』で継之助は板倉老中にこう説く。

「結局、中途半端がいけませぬ」
と、継之助は最後にいった。
――京を攻めるのなら攻めるで、それならば勝つように攻めなされ。

すなわち京都は古来、要害の悪い土地であり、京都を守って勝った例は一度もない。そこで、まず京都に入る七口を封鎖し、とくに大津口、丹波口に大部隊を送る。そうすれば薩長はただでさえ少ない兵力の分散を余儀なくされる。そして京への物資の流入を断ち、機をみて鳥羽伏見から主力をもって攻め上がれば、赤子が下知しても勝てる。

しかし、板倉勝静にはこのことばはさほどにはひびかなかった。板倉自身が、戦争をしたくない。しかし下僚が戦争をしようと騒ぎたてる。それを押さえたり、揉んだりしているのがせいいっぱいで、戦争に勝つための戦略戦術などは考えるゆとりもなく、関心もない。

すでに薩摩藩は江戸でのテロ行為をまで画策、西郷吉之助はなんとしても徳川を戦争に引きづりこもうと腹を決めていた。この覚悟の差が、薩長両藩に勝利をもたらしたといえるじゃろう。

かくして鳥羽伏見の戦いに旧幕府軍は惨敗。徳川慶喜は、板倉勝静松平容保松平定敬をともない、夜陰に紛れて大坂湾から開陽丸にのりこみ、兵を置き去りにして江戸に引き上げる。そして、会津、桑名は凄惨な戊辰戦争へと突入。長岡藩もまた、北越の地で新政府軍と死闘を繰り広げることになるわけじゃが、その話はまた、別の機会に。