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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

人に不意(1221)討ち承久の乱~後鳥羽上皇はなぜ、兵を挙げたのか

人に不意(1221)討ち承久の乱後鳥羽上皇といえば承久の乱承久の乱は、有史以来はじめて武家が朝廷と戦って勝利し、天皇上皇島流しにしたという、日本史上のエポックメイキングといってよい事件じゃ。

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇Wikipedia)

後鳥羽院とは?~勉強もスポーツもできる万能の君

後鳥羽院高倉天皇の第4皇子で、安徳天皇の異母弟にあたる。木曽義仲が上洛すると、敗れた平家は安徳天皇を奉じて西国に落ちのびる。そこで、当時まだ4歳だった尊成親王三種の神器なしで即位した。安徳天皇は平家とともにが壇ノ浦に沈むことになるが、この時期は南北朝時代と同様、日本にふたりの天皇がいたことになる。

後白河法皇が没し、関白の九条兼実が失脚すると、後鳥羽天皇は親政をおこない、その後は院で「治天の君」として政治手腕を発揮する。たとえば、白河天皇北面の武士をつくったように西面の武士という親衛隊を創設したり、藤原定家勅撰和歌集新古今和歌集」を編纂させるなど、文武両面で大活躍する。

後鳥羽院は多種多芸で、和歌の才能はもちろん一級品。そのほかにも、管弦、書画などの芸能から、弓術、相撲、水泳などの武道、さらには刀剣マニアとして、名刀を鍛造しては、お気に入りにものを臣下にあげたりしていたらしい。勉強もスポーツもできる万能の君だったわけじゃよ。

源実朝後鳥羽院との蜜月関係

ところで注目したいのは鎌倉との関係じゃ。後鳥羽院は諸国に膨大な荘園をもっていたが幕府によって地頭が各地に設置されるようになると、年貢の未納問題などがおこるようになってきた。当然、後鳥羽院にとって地頭を送りこんでくる幕府は不愉快な存在だったはずじゃ。

それでも後鳥羽院は当初、実朝公との関係強化により、公武融和をめざしていたふしがある。そもそも「実朝」という名を与えたのも後鳥羽院だし、実朝の正室・坊門信清の娘は後鳥羽院のいとこであり、妻どうしが姉妹の義兄弟の関係になる。

ただし、実朝公に官位を与えてどんどん昇進させたのは官打ち」により実朝を呪詛調伏したものだという研究者もいるし、『承久記』には、そうした記載もなされている。さらには実朝公暗殺の黒幕は後鳥羽院だという説もある。

とはいえ、実朝公ご自身が「源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(『吾妻鏡』)といっているし、その時点では北条政子さまと藤原兼子(後鳥羽院の乳母)の間で親王将軍を迎える交渉もなされていたわけで、実朝公の昇進は、親王を猶子に迎えるための準備であったと考えることもできる。

後鳥羽院は、実朝公を通じて鎌倉幕府を取り込もうとしていたのかもしれない。そして実朝公も朝廷との関係強化を望んでいた。それに対して北条義時公は、朝廷をたてつつも、幕府の独立制を保ちたかった。このあたりの軋轢が承久の乱の原因であり、実朝公の死により、それが表面化してきたのじゃろう。

朝幕関係の急激な悪化

実朝公暗殺後、幕府はかねてからの下交渉通り、雅成親王を新将軍として迎えようとした。しかし、後鳥羽上皇はそれを受け入れるために2つの条件を出してきた。ひとつめは、上皇が寵愛する白拍子に与えた摂津国の長江・倉橋荘の地頭を罷免すること。ふたつめは幕府に黙って西面の武士となり、所領を没収されていた仁科盛遠の処分を撤回することだ。

いくら後鳥羽院の要望とはいえこれは無理筋であった。これらを受け入れてしまえば、御家人からの幕府の信用は失墜しかねない。義時公はこれを拒否し、そのうえで弟の時房に兵を与えて上洛させ、武力を背景に後鳥羽院をねじ伏せようとした。

しかし、後鳥羽院はそんな恫喝に屈するようなヤワなお人ではない。皇子を鎌倉将軍に就けることは天皇と将軍で国をふたつに割ることにつながりかねないと、つっぱねたという。かくして親王将軍を鎌倉に迎える計画は失敗する。

かくして幕府は西園寺公経を通じて、摂関家九条道家に接近し、頼朝公の遠縁にあたる道家の子・三寅(後の頼経)を将軍として迎えることになるが、朝廷と幕府の間にはしこりが残る結果となってしまった。

承久元年(1219)7月、内裏守護の源頼茂源頼政の孫)が、西面の武士に討ち取られるという事件が起こる。理由は頼茂が将軍になろうとしたためだという。ただ、鎌倉の将軍継嗣問題に院が武力行使するというのも不自然である。じつはこれ、後鳥羽院が鎌倉調伏の加持祈祷を行っていたことを頼茂に知られたため、証拠を隠蔽したということらしい。京都と鎌倉の間の緊張関係はいよいよ高まっていくのじゃ。

ついに北条義時追討の院宣が……

そして承久3年(1221年)5月14日、後鳥羽院は「流鏑馬揃え」を口実に、北面・再面の武士や近国の武士を集める。その中には、尾張守護・小野盛綱、近江守護・佐々木広綱、検非違使判官・三浦胤義ら有力御家人もいた。そして翌15日には京都守護の伊賀光季を攻め、ついに諸国に義時公追討の院宣を発したのじゃ。

院宣を被るに称へらく、故右大臣薨去の後、家人等偏に聖断を仰ぐべきの由、申せしむ。仍って義時朝臣、奉行の仁たるべきかの由、思し食すのところに、三代将軍の遺跡を管領するに人なしと称して、種々申す旨あるの間、勲功の職を優ぜらるるによりて、摂政の子息に迭へられをはんぬ。然共、幼齢にして未識の間、彼の朝臣、性を野心に稟け、権を朝威に借れり。これを論ずるに、政道、豈然るべけんや。仍って自今以後、義時朝臣の奉行を停止し、併ながら叡襟に決すべし。もしこの御定に拘らずして、猶反逆の企ある者は、早くその命を殞すべし。殊功の輩においては、褒美を加へらるべきなり。宜しくこの旨を存ぜしむべし。されば院宣かくのごとし。これを悉くせよ。以て下す。
 承久三年五月十五日  按察使(葉室)光親奉る

よく承久の乱 については、後鳥羽院は「院宣を発すれば、諸国の武士はこぞって味方すると状況を甘く見ていた」「鎌倉は勝つべくして勝った」というようなことがいわれるが、実際はそんな簡単なことではなかった。

すでに近国の武士は後鳥羽院に味方しているし、西国はそもそも院の勢力下にある。少なくとも動員兵力は鎌倉も朝廷も拮抗していたとみてよい。少なくともわしの時代に挙兵した後醍醐天皇よりも、後鳥羽院のほうが手ごわかったとすらいえるのじゃ。

そもそも「朝敵」にされるというのは、武人にとっては耐え難いものなのじゃ。じっさい『増鏡』によると、泰時公と義時公との間では、出陣にあたって、こんな会話がなされている。

かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただ一人鞭をあげて馳せ来たり。父胸うち騒ぎて、「いかに」と問ふに、「戦のあるべきやう、大方の掟などは仰せの如くその心をえ侍りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦を先立てて御旗をあげられ、臨幸の厳重なることも侍らんに参りあへらば、その時の進退はいかが侍るべからん。この一事を尋ね申さんとて一人馳せ侍りき」といふ。
義時とばかりうち案じて、「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことはいかがあらん。さばかりの時は、兜をぬぎ、弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」といひも果てぬに、急ぎ立ちにけり。

「もし、後鳥羽院自ら戦場に出てきたらどうすればよいですか」という泰時公の問いに、義時公は「その時はしかたがないから降伏せよ」と答えている。朝廷に弓を引くという行為が、いかに気が重いものであるかがよくわかるのう。

まして後鳥羽院が朝敵としたのは、あくまでも義時公である。義時公は将軍ではないから、いくら政治の実権を握っていたとはいえ御家人との主従関係はない。「俺のために戦え!」と命令をくだせる立場ではない。そもそも北条が幕政を牛耳っていることに内心、不満をもっていた御家人もいたはずだし、得宗専制の時代ほど、北条の力は強くない。義時公はこのとき、かなりのピンチだったといえるだろう。

この義時公の窮地を救ったのが、尼将軍・政子さまのかの有名な大演説というわけじゃが、長くなってきたので、その内容や戦の経緯についてはこちらを。

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