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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

無念!比企能員……妙本寺に比企一族を偲ぶ

鎌倉・室町

今日は所用で午後出社の予定だったけど、中途半端に仕事をするのもどうかと思い、けっきょく休むことにし、午後はぷらぷらと鎌倉散歩。
行き先は比企谷の妙本寺。北条氏に滅ぼされた比企能員の館があったところじゃ。

比企能員は、源頼朝の乳母であった比企尼の甥で、のちに猶子となり比企の家を継ぐ。源平合戦奥州藤原氏攻めでも功を上げた鎌倉幕府の有力御家人じゃ。

源頼朝公の信頼厚く、頼家公が生まれるとその乳母父となる。やがて娘の若狭局は、頼家との間に嫡男の一幡を生む。そして頼朝の死後は、2代将軍の外戚として幕府内で権勢をふるうようになる。

そうなるとおもしろくないのが北条氏。これまで将軍の外戚として一定の地位を確保してきた時政公。このままいけば、北条は比企の風下に立つのは必定。政子殿もまた、比企の家にべったりで北条を蔑ろにする我が子に不満がある。そんなタイミングで起こったのが「比企能員の変」というわけ。

吾妻鏡」には事件の経緯がこう記されている。

建仁3年(1203年)9月2日、頼家はとつぜん病に倒れ、危篤状態に陥る。すると北条時政は、頼家の遺領のうち関東28国の地頭職を一幡に、西国38国の地頭職を頼家の弟・実朝に分与することをさっさと決めてしまう。

これに比企能員は激怒し、病床の頼家公に北条時政公を討つべしと進言。頼家公はこれを了承する。
しかし、これを障子越しにたまたま聞いてしまったのが政子殿。政子殿は時政公にこのことを報せ、時政公は先手を打って能員殺害を決意。仏事にことよせて自邸に招く。
能員は周囲が止めるにもかかわらず、のこのこと平装で時政邸を訪れ、あっさり殺されてしまうのじゃ。

比企一族は、一幡の邸である小御所に立て籠もるが、「これは謀反である」と尼将軍・政子殿の命で編成された幕府軍の前には多勢に無勢。館に火を放ち、一族は炎の中で滅亡した。

比企能員邸跡に建てられた長興山妙本寺。事件当時、幼少で京都にいたため難を逃れた比企能員の息子・能本が、一族の供養のために、日蓮に屋敷を献上したのが始まりとのこと。ちなみに「長興」「妙本」は、日蓮が授けた能員とその妻の法号じゃ。
 
境内には比企一族の墓が並んでいる。比企の変後、灰燼となった小御所の跡地の死骸から、一寸ばかりの焼け焦げた一幡の小袖が見つかった。境内にある一幡の袖塚は、それを祀ったものらしい。
 
なお、一幡については、その死を暗示するような出来事があったと、建仁3年1月2日の吾妻鏡」に記されている。
将軍家若君(一幡)鶴岡宮に御奉幣。神馬二疋を奉らる。
御神楽を行わるるの処、 大菩薩巫女に託し給いて曰く、今年中、関東に事有るべし。
若君家督を継ぐべからず。
岸上の樹その根すでに枯れ、人これを知らずしてただ梢緑持つ。
 
一幡には、公暁、栄実、禅暁という異母弟と、同母妹の媄子(よしこ、竹御所)がいた。
弟たちの最期については、またいずれ書くとして媄子のこと。媄子は28歳で13歳の第4代将軍藤原頼経に嫁ぎます。夫婦仲は円満で、媄子が懐妊すると、人々は源頼朝公の血を引く次期将軍の誕生を期待した。
しかし、媄子は難産の末に死去。頼朝公の血統はこれで完全に断絶してしまったのじゃ。
境内にはひっそりと媄子の墓も。
 
 
さて比企能員の変。政子が、偶然話を立ち聞きしていたというのは、あまりにもできすぎた話じゃし、比企能員と頼家公の密議がほんとうにあったのかどうか、じつは疑わしい。そもそも「吾妻鏡」は、わが北条得宗家の正当性という視点で書かれているわけじゃからね。

ちなみに「愚管抄」では、頼家公は病に倒れたとき、自分は出家して家督を一幡に譲ろうとしていたとある。そうなると、比企能員の力はますます強くなり、北条氏はその風下に立たされることになる。だから時政公は先手を打った、という見方が自然ではなかろうかと。
 
ちなみに、京都側の記録では、頼家公がまだ生きているうちに、鎌倉から頼家公の死亡と実朝公の将軍就任を申請する使者が遣わされている。しかし、この後、危篤だった頼家公は奇跡的に回復。これは死人に口無し、と陰謀をでっちあげた北条氏にとっては誤算であったことじゃろう。。

事の顛末を知った頼家公は激怒し、時政公の追討を画策します。とはいえ、比企能員という後ろ盾のない頼家公ができることなどしれている。けっきょくは伊豆に流され、刺客に殺されてしまったというわけじゃ。

かくして、比企能員の変を契機に、北条氏はこの後、つぎつぎと有力御家人を滅ぼし、執権政治の基盤を固めていくわけじゃがで……こんなことばかりを繰り返す北条氏
やはり、爽やかさがないというか、陰気の誹りは免れませんな。