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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

生品明神で新田義貞が挙兵…我らは源氏、北条は平氏、ゆめゆめ平氏の犬に成り下がるではないぞ

太平記

今日5月8日は、新田義貞が挙兵した日じゃ。

新田氏は清和源氏の一族である河内源氏義国の流れをくみ、義貞はその8代目棟梁にあたる。

同じ河内源氏の流れを汲みむ足利氏が、代々、北条氏と縁組したことにより御家人の間で一目置かれる存在になっていたのに比べると、新田氏はなんとも残念なポジション。

もともと新田の祖・源義重源義国の長男で、足利の祖・源義康の兄にあたる。

しかし治承4年(1180年)の源頼朝挙兵のとき、甥の足利義兼が早々に味方に馳せ参じたのに対して、義重は当初、日和見的な姿勢をみせ、頼朝の不興をかったのがケチのつきはじめ。

足利氏にどんどん差をつけられてしまいます。新田氏の北条氏への敵愾心、足利氏へのライバル心は澱のように溜まっていたんじゃろうな。


NHK大河ドラマでは、少年期の新田義貞足利高氏に「我らは源氏、北条は平氏、ゆめゆめ平氏の犬に成り下がるではないぞ」と言い放つシーンがあったが、つねに そんな心意気だったのかもしれぬのう。

さて、古典「太平記」によると、義貞は千早城攻めに動員されるが護良親王から密かに討幕の綸旨が届けられると、病と称して新田荘に戻ってしまう。
鎌倉勢が楠木正成に手こずる様をみて、義貞は幕府にはもはや昔日の威信はないことを感じとったのかもしれん。

 

いっぽう、幕府は、かさむ戦費を工面するため、関東の各地に有徳銭という一種の富裕税を課していた。

新田荘にも、北条一族の金沢親連(紀氏とも)と得宗御内人の黒沼彦四郎を派遣し、銭6万貫を要求。ふたり庄屋に押し入り、強引な取り立てをしたという。

義貞はこれと衝突し、けっきょくふたりを捕え、黒沼を斬り捨て、幕府に反旗を翻す。

相模入道此事を聞て、大に忿て宣けるは、「当家執世已に九代、海内悉其命に不随と云事更になし。然に近代遠境動ば武命に不随、近国常に下知を軽ずる事奇怪也。剰藩屏の中にして、使節を誅戮する条、罪科非軽に。此時若緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成ぬべし。」とて、則武蔵・上野両国の勢に仰て、「新田太郎義貞・舎弟脇屋次郎義助を討て可進す。」とぞ被下知ける。

正慶2年(元弘3年、1333)5月8日、義貞は覚悟を決め、生島明神で挙兵。わずか150騎での決起じゃった。
同五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗を挙、綸旨を披て三度是を拝し、笠懸野へ打出らる。相随ふ人々、氏族には、大館次郎宗氏・子息孫次郎幸氏・二男弥次郎氏明・三男彦二郎氏兼・堀口三郎貞満・舎弟四郎行義・岩松三郎経家・里見五郎義胤・脇屋次郎義助・江田三郎光義・桃井次郎尚義、是等を宗徒の兵として、百五十騎には過ざりけり。
決起した義貞は、まず鎌倉方の長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所を壊滅させる。
そして、越後、信濃、甲斐の新田一族や、里見、鳥山、田中、大井田、羽川ら氏族が合流すると、義貞軍は7,000の大軍に膨れ上がり、鎌倉への進撃を開始する。
 
当初、ワシらは新田義貞謀反の報を聞いても、「新田ごとき貧乏御家人に何ができる」と高をくくっていた。
事実、新田だけであれば、それほどの脅威ではなかった。じゃが、鎌倉を密かに逃れた足利高氏の嫡男・千寿王が義貞に合流し、その兵力は一気にふくれあがった。
これは誤算じゃったのう。
そして、追い打ちをかけるかのように届いた六波羅陥落の悲報。
 
ワシもさすがに、覚悟を決めたよ。