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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条時益~最後の六波羅探題南方の無念

最後の六波羅探題南方は政村流・北条時益元弘の乱では北方の北条仲時とともに笠置山の戦い、赤坂城の戦いに勝利し、その後も、後醍醐帝の隠岐配流や畿内凶徒の鎮圧に尽くしていたが、さいごは足利高氏の寝返りで六波羅は陥落。無念じゃ……

北条の旗

左近左近太夫将監・北条時益について

北条時益は 通称は左近左近太夫将監。北条政村五男政長の子・時敦の嫡男として生まれた。青年は不詳ながら、探題北方の仲時とほぼ同年代と思われる。父・北条時敦は、文保の和談がなされたときの六波羅探題で、その心労がたたったのか在任中に過労死してしまった。京では和歌を嗜み、勅撰和歌集にも時敦の和歌が採られていることから、時益にもそうした嗜みがあったのかもしれない。

元徳元年(1329)、父と同じように六波羅探題南方として京に上った。後醍醐帝が鎌倉倒幕を企てる難しい時期に、北条仲時とともに京の治安維持を任され、加賀、伯耆丹波の守護を兼ねて反幕勢力の制圧によくつとめてくれた。

とくに播磨の赤松則村の反乱鎮圧に力を尽くしたが、赤松は手ごわく、十余度の合戦に打ち負け、足利高氏が裏切ると、六波羅を皇居となし、ここに籠り抵抗を試みることになる。

此付近平氏六波羅第跡 六波羅探題府

此付近平氏六波羅第跡 六波羅探題

六波羅陥落

正慶2年(1333)5月7日早朝。 宮方は総攻撃を始める。

去程に六波羅には、六万余騎を三手に分て、一手をば神祇官の前に引へさせて、足利殿を防がせらる。
一手をば東寺へ差向て、赤松を防がせらる。一手をば伏見の上へ向て、千種殿の被寄竹田・伏見を被支。
巳の刻の始より、大手搦手同時に軍始まて、馬煙南北に靡き時の声天地を響かす。(以上『太平記』)

足利高氏勢が丹波口から、赤松勢が東寺から、伏見方面からは千種忠顕勢が、それぞれ六波羅に向かって進撃する。六波羅勢は、淡河左京亮通時以下が懸命に抵抗するが、衆寡敵せず、七条河原まで押し返されてしまう。 

爰に糟谷三郎宗秋、六波羅殿の前に参て申けるは、「御方の御勢次第に落て、今は千騎にたらぬ程に成て候。此御勢にて大敵を防がん事は叶はじとこそ覚へ候へ。東一方をば敵未だ取まはし候はねば、主上・々皇を奉取て、関東へ御下候て後、重て大勢を以て、京都を被責候へかし。佐々木判官時信、勢多の橋を警固して候を被召具ば、御勢も不足候まじ。時信御伴仕る程ならば、近江国に於ては手差者は候まじ。美濃・尾張三河遠江には御敵有とも承らねば、路次は定て無為にぞ候はんずらん。鎌倉に御着候なば、逆徒の退治踵を不可回、先思召立候へかし。是程にあさまなる平城に、主上・々皇を篭進らせて、名将匹夫の鋒に名を失はせ給はん事、口惜かるべき事に候はずや。」と、再三強て申ければ、両六波羅げにもとや被思けん 。(以上『太平記』)

時益は仲時と協議のうえ糟谷宗秋の進言を容れ、光厳天皇後伏見上皇花園上皇をお護りし、京を脱出することとした。洛外に行幸をなして関東の援軍を待つ。または金剛山を包囲する幕府軍と連絡を取って、再挙を図ろうというわけじゃ。

六波羅探題

なお、このとき、もうひとりの探題・北条仲時と妻の涙の別れについてはこちらを読んでほしい。

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北条時益の最期

かくしてわずか1000騎ばかりで洛外へ向かう六波羅軍だったが、東山から山科へと抜ける苦集滅道(くずめじ)で野伏の襲撃を受ける。このとき時益は流れ矢を受け、あえなく落命してしまう。元弘3年5月8日のことである。なお、『梅松論』では時益討死を四宮河原としている。

十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。
五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。
糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。
敵何くに有とも知ねば、馳合て敵を可討様もなし。
又忍て落る道なれば、傍輩に知せて可返合にてもなし。
只同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重ずるより外の事はあらじと思ければ、糟谷泣々主の頚を取て錦の直垂の袖に裹み、道の傍の田の中に深く隠して則腹掻切て主の死骸の上に重て、抱着てぞ伏たりける。(以上『太平記』)

欲の皮の突っ張った野伏ども。追い払えども追い払えどもどこからともなくわいてきては、矢を射かけてくる。洛外への脱出を進言した糟谷七郎は、時益を追って自害して果てたという。

都を一片の暁の雲に阻て、思を万里の東の道に傾させ給へば、剣閣の遠き昔も被思召合、寿水の乱れたりし世も、角こそと叡襟を悩し玉ひ、主上・々皇も御涙更にせきあへず。
五月の短夜明やらで、関の此方も闇ければ、杉の木陰に駒を駐て、暫やすらはせ給ふ処に、何くより射る共知らぬ流矢、主上の左の御肱に立にけり。陶山備中守急ぎ馬より飛下て、矢を抜て御疵を吸に、流るゝ血雪の御膚を染て、見進らするに目もあてられず。忝も万乗の主、卑匹夫の矢前に被傷て、神竜忽に釣者の網にかゝれる事、浅猿かりし世中也。(以上「太平記」)

野伏どもは、やたらめったら矢を打ちかけ、そのうちの1本が恐れ多くも主上の左肘に矢傷を負わせてしまう。嘆かわしいことじゃ。

 

時益は鎌倉武士。ほんとうならば裏切り者の足利高氏に一矢報うべく敵陣に切り込んで、戦場で散りたいという思いはあったはず。それでも院や主上をお守りせねばならず、やむなく都落ちし、名もなき野伏などに討たれたというのは、さぞや口惜しかったじゃろう。

院も主上もこの段階では鎌倉方。六波羅も鎌倉も朝敵ではなかった。身勝手な先帝と同じ時代を生きた悲運としか言いようがない。

なお、このあと、探題北方・北条仲時もまた悲惨な最期を遂げることになるのじゃが、それについてはこちらを読んでもらえれば幸いじゃ。

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