鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

最後の六波羅探題南方、北条時益の無念……

最後の六波羅探題南方は政村流 北条時益。元弘の乱では、六波羅探題北方の北条仲時とともに笠置山の戦い、赤坂城の戦いに勝利し、その後も、後醍醐帝の隠岐配流や畿内凶徒の鎮圧に尽くしていたが、さいごは足利高氏の寝返りで六波羅は陥落。

無念じゃ……

時益は、仲時とともに花園上皇光厳天皇をお護りして、わずか1000騎ばかりで鎌倉に下向、再挙をめざしたが……

十四五町打延て跡を顧れば、早両六波羅の館に火懸て、一片の煙と焼揚たり。
五月闇の比なれば、前後も不見暗きに、苦集滅道の辺に野伏充満て、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を被射て、馬より倒に落ぬ。
糟谷七郎馬より下て、其矢を抜ば、忽に息止にけり。

敵何くに有とも知ねば、馳合て敵を可討様もなし。
又忍て落る道なれば、傍輩に知せて可返合にてもなし。
只同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重ずるより外の事はあらじと思ければ、糟谷泣々主の頚を取て錦の直垂の袖に裹み、道の傍の田の中に深く隠して則腹掻切て主の死骸の上に重て、抱着てぞ伏たりける。(以上『太平記』)

 

東山から山科へと抜ける苦集滅道(くずめじ)で、野伏の矢を受け、あえなく落命したという(『梅松論』では時益討死を四宮河原としている)。

元弘3年5月8日のことである。

 

とにかく、欲の皮の突っ張った野伏ども。追い払えども追い払えどもどこからともなくわいてきては、矢を射かけてくる。そのうちの1本が恐れ多くも主上の左肘に矢傷を負わせたとも。

忝も万乗の主、卑匹夫の矢前に被傷て、神竜忽に釣者の網にかゝれる事、浅猿かりし世中也。(『太平記』)

時益は鎌倉武士。ほんとうならば裏切り者の足利高氏に一矢報うべく敵陣に切り込んで、戦場で散りたいという思いはあったはず。それでも院や主上をお守りせねばならず、やむなく都落ちし、野伏などに討たれたというのは、さぞや口惜しかったじゃろう。

とはいえ、院も主上もこの段階では鎌倉方。鎌倉幕府徳川幕府とちがって、朝敵ではなかったんじゃ。そうじゃろ、時益!