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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

名越流北条高家…戦国のイケメン・名古屋山三郎のご先祖様

太平記

久しぶりの「太平記」ネタは、名越(北条)高家について。名越流北条氏は、北条義時公の次男・北条朝時を祖とし、名越の地にあった祖父・時政公の邸を継承したことから名越を称した。俳優の高倉健さんが名越流北条氏の末裔というのは、知る人ぞ知るトリビアじゃ。

この名越氏は、その家格の高さからプライドも高く、しばしば得宗家に反抗してきた。そこで得宗としも名越を警戒したし、粛正したりもしてきたん。じゃが、ワシの代になると得宗家の基盤は盤石となっており、名越も従順になっていて、名越高家評定衆をつとめている。

 

久我畷の戦い

隠岐に流した後醍醐天皇が船上山に兵を挙げると、ワシは名越高家足利高氏の軍勢を上洛させた。名越高家は久我畷の合戦(京都市伏見区)で京に迫る千種忠顕、結城親光、赤松則村らと戦っている。その時の様子を「太平記」はこう伝えている。

尾張守は、元より気早の若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚す様にして、名を揚んずる者をと、兼て有増の事なれば、其日の馬物の具・笠符に至まで、当りを耀かして被出立たり。花段子の濃紅に染たる鎧直垂に、紫糸の鎧金物重く打たるを、透間もなく着下して、白星の五枚甲の吹返に、日光・月光の二天子を金と銀とにて堀透して打たるを猪頚に着成し、当家累代重宝に、鬼丸と云ける金作の円鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を帯き添、たかうすべ尾の矢三十六指たるを、筈高に負成、黄瓦毛の馬の太く逞きに、三本唐笠を金具に磨たる鞍を置き、厚総の鞦の燃立許なるを懸け、朝日の陰に耀して、光渡てみへたるが、動ば軍勢より先に進出て、当りを払て被懸ければ、馬物具の体、軍立の様、今日の大手の大将は是なめりと、知ぬ敵は無りけり。

血気にはやり名をなそうとした高家は、あまりに華美な出で立ちで先頭に立って戦ったため、敵の標的になったというのじゃ。とはいえ、さすがに高家は鎌倉武士。装備も充実していたことから、宮方の軍勢をどんどん蹴散らしていく。

しかし油断大敵、敵を押し返し、一休みしているところを、赤松の一族で強弓で知られる佐用範家に狙われ、眉間を射抜かれてしまったのじゃ。

尾張守は、三方の敵を追まくり、鬼丸に着たる血を笠符にて推拭ひ、扇開仕ふて、思ふ事もなげに扣へたる処を、範家近々とねらひ寄て引つめて丁と射る。其矢思ふ矢坪を不違、尾張守が冑の真甲のはづれ、眉間の真中に当て、脳を砕骨を破て、頚の骨のはづれへ、矢さき白く射出たりける間、さしもの猛将なれ共、此矢一隻に弱て、馬より真倒にどうど落、範家箙を叩て矢呼を成し、「寄手の大将名越尾張守をば、範家が只一矢に射殺したるぞ、続けや人々。」と呼りければ、引色に成つる官軍共、是に機を直し、三方より勝時を作て攻合す。尾張守の郎従七千余騎、しどろに成て引けるが、或は大将を打せて何くへか可帰とて、引返て討死するもあり。或は深田に馬を馳こうで、叶はで自害するもあり。されば狐河の端より鳥羽の今在家まで、其道五十余町が間には、死人尺地もなく伏にけり。

なんともあっけない最期じゃが、大手をいく大将・名越高家の討死がワシらに与えたダメージは大きく、六波羅もさぞかし衝撃を受けたことじゃろう。

足利高氏の裏切り

ところで、 搦手を行く足利高氏じゃが、 こやつはすでに裏切りを決め込んでおり、高家の奮戦などどこ吹く風で、酒盛りをしていたらしい。

追手の合戦は、今朝辰刻より始まて、馬煙東西に靡き、時の声天地を響かして攻合けれ共、搦手の大将足利殿は、桂河の西の端に下り居て、酒盛してぞおはしける。角て数刻を経て後、大手の合戦に寄手打負て、大将已に被討ぬと告たりければ、足利殿、「さらばいざや山を越ん。」とて、各馬に打乗て、山崎の方を遥の余所に見捨て、丹波路を西へ、篠村を指て馬を早められけり。

大江山の麓にさしかかる頃、備前国の中吉十郎と摂津国の奴可四郎の2人は、高氏の行動を不審に思い、事の次第を六波羅に報告する。

彼等二人馳参て事の由を申ければ、両六波羅は、楯鉾とも被憑たりける名越尾張守は被討ぬ。是ぞ骨肉の如くなれば、さりとも弐はおはせじと、水魚の思を被成つる足利殿さへ、敵に成給ぬれば、憑む木下に雨のたまらぬ心地して、心細きに就ても、今まで着纒ひたる兵共も、又さこそはあらめと、心の被置ぬ人もなし。

六波羅の命運もここに尽きた、という感じじゃな。他人事みたいで申し訳ないが。

北条高家名古屋山三郎

ちなみに「難太平記」によると、名越高家には今川氏出身の妻との間に高範という遺児がおり、高範は叔父の今川頼国に保護されて養子となって生き延びたそうじゃ。

その子孫が歌舞伎の祖とされてる名古屋山三郎(出雲阿国の夫)で、末裔は加賀藩に仕えて代々、「名越」を称したらしい。

名古屋山三郎といえば、類稀なる美貌の持ち主であり、主君の蒲生氏郷ははじめ女と勘違いし、嫁に取るために身元を調べたという逸話もある男じゃ。

そのイケメンぶりから数々の浮名を流し、「じつは豊臣秀頼の父親は山三郎ではないか」という噂も……

まあ、その真偽はともかくとして、久我畷の合戦に臨んだ名越高家もまた、雅でイケメンな鎌倉武士だったんじゃよ。

鎌倉でいっしょに田楽舞や闘犬を楽しんだりしていた頃がなつかしいのう……惜しい人を亡くしたよ。

名古屋山三郎