なにかと評判がよろしくない後醍醐天皇の建武の新政。あの忠臣の万里小路藤房卿にも愛想を尽かされ、武家の間では「北条のときのほうがよかった!」という声もちらほら。そこで、なんとも恐ろしい陰謀を企てたのが、西園寺公宗と、わが弟の北条時興(泰家)じゃ。
北条時興は元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡したとき、ひそかに鎌倉を落ち、しばらく奥州に身を隠していた。その後、北条氏再興を目論み、還俗して京都に上り、西園寺公宗を頼る。
もともと西園寺家は承久の乱以後、関東申次として、北条氏の威を借りて朝廷内で大きな発言力をもっていた。しかし幕府滅亡後は凋落し、ひそかに地位回復をねらっていたんじゃな。
そこで北条時興は西園寺公宗に接近、ふたりは後醍醐天皇の暗殺計画を練り上げる。
「太平記」によると、謀略はつぎのとおりじゃ。
まず、西園寺公宗の北山の山荘(現在の金閣寺があるあたり)に湯殿を建設する。湯殿は板を一枚踏めば落ちるようになっており、 その下には刀の束を立てておく。そして後醍醐天皇を誘い、酒宴と入浴を勧め、この下に落として殺害しようというも計略じゃ。
そして時興は畿内と近国の軍勢を召集して兵を挙げ、信濃では時興の甥・北条時行(北条高時の次男)が、北国では名越(北条)時兼が呼応し、その武力を背景に持明院統の後伏見法皇を擁立して新帝を即位させ、建武政権を覆そうというものじゃった。
しかし、この計画は西園寺公宗の異母弟の公重の密告で露呈。北条時興は逐電し行方不明となり、公宗は捕らえられ、出雲国へ配流される途中に処刑されてしまう。ちなみに、現職公卿の処刑は平治の乱の藤原信頼以来じゃつたらしい。
(´-`).。oO(そりゃ、言われるよ、まちがいなく…)