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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

平維盛さんのこと…無能なイケメンというなかれ。

今日は平家の若大将 平維盛さんのこと。平維盛さんといえば、富士川の合戦、倶利伽羅峠の合戦という源平2大決戦に敗れ、平家滅亡の戦犯として扱われがちな人物。それだけに、鎌倉幕府を滅ぼしてしまったワシとしては、シンパシーを感じるんじゃよ。ほんとは維盛さん、戦が嫌いだったんじゃないかなと。そもそも、戦嫌いが戦好きになんて、勝てっこないよ、そりゃあ。

 美貌の貴公子、平維盛

平維盛さんは、平清盛の嫡孫で平重盛の庶長子として生まれた。それはそれは美貌の貴公子だったそうで、「今昔見る中に、ためしもなき」「容顔美麗、尤も歎美するに足る」などと評されていたらしい。

後白河法皇50歳の祝賀では、烏帽子に桜と梅の枝を挿して「青海波」を舞い、あまりの美しさから桜梅少将と呼ばれたそうじゃ。

維盛少将出でて落蹲入綾をまふ、青色のうえのきぬ、すほうのうへの袴にはへたる顔の色、おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、かざしの桜にぞことならぬ。

もっとも平重盛の子どもである維盛さんは、平家一門ではやや浮いた存在でもあった。というのも、鹿ケ谷の陰謀に重盛の義兄の藤原成親が関与していたことが発覚。重盛の政治的立場はとたんに悪くなり、やがて重盛は若くして病死してしまう。維盛さんは、成親の娘を正室に迎えていたから、なお具合が悪い。しかも、重盛は清盛の前妻の子。後妻の時子の子である宗盛が一門の中で台頭してきたことで、維盛さんの地位はなんとも微妙なものになっていく。

それでも平時であれば、維盛さんも光源氏の再来として、歌や踊り、持ち前のイケメンを武器に、それなりに我が世の春を謳歌できたはずじゃったろう。しかし、歴史は維盛さんに過酷な運命を与えるのじゃ。

富士川倶利伽羅峠の戦いで大将軍をつとめるも……

治承4年(1180年)、以仁王源頼政が挙兵し、源平の合戦がはじまる。すると維盛さんは大将軍となり、叔父・平重衡とともに宇治に出陣して頼政軍を鎮圧する。じゃが、「盛者必衰」の歴史の流れはこの程度では止められない。つづいて維盛さんは、源頼朝追討軍の総大将に任命され、東海道を下っていく。富士川の合戦じゃ。

7万の平家軍が水鳥の羽音を源氏の夜襲と思い込み、あわてふためき逃げ帰る。その醜態に激怒した清盛は維盛さんの入京を許さない。なんとも情けない大将軍……

ただ、この富士川の合戦、じつは平家の軍勢は兵糧も乏しいうえに寄せ集めで数千騎しかなく、源氏の大軍にとても勝てる状態ではなかったという。おまけに、斎藤実盛が「俺くらいの弓の使い手は坂東にはくさるほどいる」「京の武者200人で坂東武者10人にはかなわない」と、味方をビビらしたせいで、兵の士気も奮わない。こんな状態で維盛さんに全責任を負わせるのは、さすがに酷い。そもそも若い維盛さんにできることなんかしれている。これはもう、維盛さんを起用した清盛の判断ミスじゃろう。

じゃが、不運な維盛さん。つづく木曾義仲追討軍の総大将にも任命され、10万の軍勢を率いて北陸道を下っていくことになる。すでに清盛は没しており、まさに平家の命運をかけた大戦じゃ。しかし、これも相手が悪すぎた「火牛の計」などというとんでもない作戦を使う義仲じゃからのう。おまけに巴御前なんて女武者までいるわけじゃし。せめて源行家あたりだったら、維盛さんも互角以上に戦えたと思うんじゃが。

妻子と涙の別れ

かくして維盛さんは、倶利伽羅峠の戦いでさんざんに打ち負かされ、寿永2年(1183年)7月、平家は都落ちとなる。「平家物語」には、維盛とその妻・北の方、そして10歳の六代御前、8歳の姫宮との涙の別れの場面が描かれておる。

平維盛都落ち 

維盛さんは、妻の行く末を案じ、京に残り子どもを頼むと告げ、もし自分に何かあれば、遠慮なく再婚するよう言い残す。

都には父もなし、母もなし。捨られまいらせて後、又誰にかはみゆべきに、いかならん人にも見えよなど承はるこそうらめしけれ。前世の契ありければ、人こそ憐み給ふ共、又人ごとにしもや情をかくべき。いづくまでもともなひ奉り、同じ野原の露ともきえ、ひとつ底のみくづともならんとこそ契しに、さればさ夜のね覚のむつごとは、皆偽になりにけり。せめては身ひとつならばいかヾせん、すてられ奉る身のうさをおもひ知てもとヾまりなん、おさなき者共をば、誰に見ゆづり、いかにせよとかおぼしめす。うらめしうもとヾめ給ふ物哉」と、且はうらみ且はしたひ給ふ。

袖にしがみつき、泣いて同行を願う妻と子。その嘆き悲しみはいかばかりか。それでも維盛さんは、ふりきって馬上の人となる。そして平家は一門の館に火をかけ焼き払い、都を落ちていく。

このあたり、足利高氏に都を追われ、鎌倉へと落ち延びていく六波羅探題北条仲時とその妻子が別れゆく「太平記」と同じ描写じゃ。やはり平氏は、どこまでもいっても源氏に都を追い落とされる運命なのかもしれぬ。もっとも、足利義昭を追い落としたのは、平氏織田信長じゃったか。その信長を京の本能寺で殺したのは源氏の明智光秀じゃが。

ちなみに、都落ちにあたり、一門の中で妻子を残したのは維盛さんのみ。なぜ維盛さんは他の平家の人々と同じように、妻子を同行させなかったのか?これは勝手な想像なんじゃが、やはり冨士川、倶利伽羅峠で敗れ、ただでさえ孤立気味の自分の立場を考えると、西国に連れて行っても肩身が狭い思いをさせると思ったのか。

あるいは、源氏の苛烈なまでの強さを感じていた維盛さんは、この後の平家の末路を感じとっていて、妻子を過酷な環境に連れて行くことができなかったのではないかと。少なくとも、他の平家一門はまだまだ捲土重来、西国での巻き返しに自信をもっていたでしょう。このあたりの温度差はいいとこ育ちの維盛さんにあう。これもまた、勝手なイメージなんじゃがね。

この後、維盛さんの妻・北の方は、後に頼朝の信頼厚い吉田定房に再嫁している。また、嫡男の六代は、文覚の除名嘆願により斬首を免れ出家し、その命を長らえる。もっとも、その文覚が土御門通親襲撃を企てたとかで配流となり、その巻き添えをくらって処刑されてしまうんじゃが、さすがに維盛さんもそこまで思い至るはずもないわな。

維盛の最期と各地に残る伝説

さて、その後の維盛さん。源氏に押されて西へ西へと敗走する平家にあって、ですが、維盛さんは一ノ谷の戦い前後に、密かに陣を抜け出し、熊野へ援軍を求めて密かに陣を抜け出したという。

しかし、援軍を得られなかった維盛さんは那智に逃れ、熊野灘の山成島の松の木に、清盛・重盛と自らの名籍を書き付けたのち、沖に漕ぎだして入水自殺したという。享年27。

祖父太政大臣朝臣清盛公法名浄海、親父内大臣左大将重盛公法名浄蓮、三位中将維盛法名浄円、生年27歳、寿永3年3月28日、那智の沖にて入水す

維盛さんのいささかの「矜恃」が感じられる書き付けじゃな、これ。

もっとも、これは「平家物語」の記述で、維盛さんは入水ではなく、熊野を経た後、都に上って後白河法皇に助命を乞い、頼朝の命で鎌倉へ下向する途中に、相模国の湯下宿で病死したという説もあるそうじゃ。

まあ、これはちょっとイメージがくずれるがね。

それより特筆すべきは、全国各地の維盛さんにまつわる伝説じゃ。

なんと、沖縄まで!

九郎義経殿ほどではないけれど、豊臣秀頼よりは上を行く生存伝説、歴史ロマンじゃのう。これ、やはり、愛されている証拠。

「無能なイケメン」で片付けてしまうわけにはいかない人物じゃな、維盛さん。