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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

蘇我入鹿暗殺の真相~首ポーンされた伝飛鳥板蓋宮跡をうろうろと。

この夏、奈良県は明日香村に行き、蘇我入鹿さんの首ポーン事件こと乙巳(いっし)の変があった伝飛鳥板蓋宮跡を訪問。あいにくの雨空だったけど、蘇我氏邸があった甘糟丘、耳成山、香具山もしっかりとみえ、飛鳥浪漫を満喫してきた。

そういえば、入鹿さんがここで暗殺された日も大雨じゃったらしいのう。

伝飛鳥板蓋宮跡

蘇我氏の専横に危機感を抱いた中大兄皇子中臣鎌足

舒明天皇崩御により、642年、皇后の皇極天皇が即位、同年、蘇我蝦夷に新宮殿の建設を命じる。これにより完成したのが板蓋宮で、文字どおり屋根に板を葺いていた宮殿じゃったらしい。

皇極4年(645)、蘇我入鹿はここ板蓋宮で暗殺され、入鹿の父・蝦夷も自殺に追い込まれている。

この「乙巳の変」を主導したのは中大兄皇子中臣鎌足。これにより皇極天皇は退位し、軽皇子天皇孝徳天皇)となり、いわゆる大化の改新がすすめられていくのじゃ。

事件の発端は蘇我氏の専横によるものだといわれている。聖徳太子厩戸皇子)の死後、蘇我氏の権勢は天皇家を凌ぐほど強大じゃった。舒明天皇、その皇后であった皇極天皇と、蘇我氏は自分の意に添う天皇をつぎつぎと即位させていく。

皇極天皇2年(643)、入鹿は蘇我氏の血を引く古人大兄皇子をつぎの天皇に据えるために、聖徳太子の子で皇位継承の有力者である山背大兄王斑鳩宮に攻めて、自害に追い込む。

こうした入鹿の専横に危機感を抱いたのが中大兄皇子中臣鎌足。このままでは、蘇我氏皇位を簒奪されてしまう……

法興寺の打毬で、中大兄皇子の皮鞋が脱げたのを中臣鎌足が拾ったことがきっかけで、2人は急接近。蘇我氏長老ではあるものの不遇をかこっていた蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き込み、入鹿暗殺計画を練ったそうじゃ。

そして皇極天皇5年(645)6月12日、三韓新羅百済高句麗)から進貢の使者が来日し、板蓋宮大極殿で三国の調の儀式が行われるタイミングで、クーデターが決行されたんじゃ。

伝飛鳥板蓋宮跡

蘇我入鹿はそんなに悪玉? 「乙巳の変」は政治権力争いにすぎない

その日、皇極天皇大極殿に出御、古人大兄皇子も側に侍し、蘇我入鹿も入朝した。
蘇我入鹿はもともと用心深い人だったので、つねに剣を手放さなかったが、このときは俳優(わざひと)がうまくやり、剣を外させるのに成功する。

中大兄皇子は長槍を、鎌足は弓矢をもって近くに潜む。実行犯を命じられたのは、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田のふたり。 

儀式がはじまると蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げる。しかし、恐怖のあまり、声が震え、冷や汗がとまらない。
さすがに不審に思った入鹿は「なぜ震えている?」と問うと、石川麻呂は「帝の御前なので緊張しております」といいつくろう。
そんな中、実行犯を命じられた佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田のふたりは、入鹿を畏れてなかなか進み出ることができない。
そこで、意を決した中大兄皇子が自らおどり出て、入鹿の頭、そして肩に斬りかかった。

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驚いた入鹿は倒れこみながら、「私に何の罪があるのでしょうか。お裁き下さい」と皇極天皇にすがる。
しかし、中大兄皇子は「蘇我入鹿皇位を奪おうとしています」と奏上すると、天皇は殿中へと退いてしまった。
そこで子麻呂と稚犬養網田は入鹿を斬り殺し、首をはねる。
その日、外は大雨で、入鹿の死体は庭にうち捨てられ、障子を覆いかぶせられた。

以上が、「日本書紀」にある乙巳の変のあらまし。このクーデターにより、蘇我蝦夷も自害に追い込まれ、蘇我本宗家は滅亡。これ以後、中大兄皇子らによって、いわゆる「大化の改新」が推し進められ、天皇を中心とする中央集権国家が建設されていくというわけで、学校で習ったのも大筋こんな感じじゃったな。

ただ「日本書紀」の蘇我氏に関する記述は、必要以上に蘇我氏を悪玉に描いているという指摘もある。

というのも、編纂を主導したのは中臣鎌足の子・藤原不比等じゃし、時の天皇は、元明天皇元正天皇中大兄皇子こと天智天皇の血統で、蘇我氏を否定しなければ、乙巳の変で奪取した自分たちの政権の正当性が揺らぐことになるからじゃ。

そもそも蘇我氏は渡来人との交流も盛んで、国際通の開明派だったといわれている。なかでも蘇我入鹿は、僧旻の私塾に学び、旻は「もっとも優秀だった」と評したという。

勝者が自分の好き勝手に歴史をつくることは世の常。この乙巳の変蘇我本宗家の滅亡も、蘇我氏と反蘇我氏の主導権争に過ぎないという見方が客観的で妥当なように思うのじゃが、どうかのう。

ワシらが編纂させた鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」をみてみよ。すべて北条贔屓でに不都合な真実は、なにも書いてないではないか。

近年では「聖徳太子は実在しなかった」「『日本書紀』の編纂寺に、藤原不比等らが創作した架空の人物だ」という説すらあって、「聖徳太子の存在そのものが、蘇我氏の否定、クーデターの正当性に利用されているのでは?」という見方もあるようじゃ。

なお、蘇我入鹿首塚は、伝飛鳥板蓋宮跡からほど近く、飛鳥寺の隣の田んぼの中のにぽつんとある。借景は蘇我氏が邸宅を築いた甘糟丘じゃよ。

飛鳥大仏はすべてを知っている!

蘇我入鹿首塚にお参りした後は、飛鳥寺に立ち寄った。飛鳥寺は、推古4年(596)、蘇我馬子によって建てられた、本格的な伽藍をもつ日本で最初の大寺院で、当時は法興寺元興寺とよばれたそうじゃ。
かつては蘇我氏の氏寺として大伽藍を誇る寺院だったそうじゃが、今では本堂のみの、こじんまりとしたたたずまいのお寺じゃった。
ご住職のお話によると、伽藍の配置や寺院の規模は大きく変わってきたけれど、大仏の位置は創建当時のままだそうじゃ。
この地にある飛鳥大仏と呼ばれる金銅仏の釈迦如来像は、606年に推古天皇が止利仏師に造らせたもので、年代がわかる仏像としては世界最古といわれている。
奈良の大仏より150年、鎌倉の大仏よりは600年も年長ということになるのう。
飛鳥寺

蘇我馬子蘇我稲目の子。敏達天皇のとき大臣(おおおみ)に就くと、以後、用明天皇崇峻天皇推古天皇の4代に仕え、蘇我氏の全盛時代を築く。

587年、馬子は、廃仏派で最大のライバルであった物部守屋を討ち、政治的実権を掌握し、仏教を中心にすえた政治を推し進める。

しかし、蘇我氏の権力拡大を快く思わない崇峻天皇とは次第に対立を深め、592年、馬子は崇峻天皇を暗殺する。この事件が、蘇我氏=悪玉というイメージに影響しているのは間違いないじゃろう。

その後、馬子は初の女帝である推古天皇を即位させる。ここで登場するのが、蘇我氏の血を引く聖徳太子厩戸皇子)。用明天皇蘇我氏の血を引く穴穂部間人王との間に生まれた皇子じゃ。

聖徳太子は摂政として、馬子と協調しながら、仏教の奨励、冠位十二階・十七条憲法の制定、遣隋使の派遣など、諸政策をすすめていく。

蘇我氏が「日本書紀」がいうように悪逆非道であったかはともかく、蘇我馬子が、当時、国づくりの主導的立場にあった人物であったことだけは疑う余地はない。

ここ飛鳥の地は、倭から日本へと、この国が国家としての歩みをスタートさせた場所。

そして飛鳥大仏は、その頃から、日本のリーダーを、この国の行く末を見守り続けているのじゃ。

飛鳥大仏