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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由…真田信繁(幸村)を偲んで茶臼山から安居神社へ

この夏、関西にいったとき、あべのハルカスに行ってきた。地上300メートル、日本一の高層ビルから大阪平野を眺め、太閤秀吉の大坂城を遠く見下ろしていると、まさに天下人の気分が味わえたぞ。

難攻不落の大坂城だが、唯一の防衛上の弱点は城の南側。大軍を展開できる平野が広がっており、秀吉は巨大な空堀をつくり、その防御に苦心したという。大坂冬の陣では、玉造門の南方に真田信繁(幸村)が出城を築き、城の守りを万全に固めた。これが脚本・三谷幸喜、主演・堺雅人で発表された2016年大河ドラマのタイトルにもなった「真田丸」じゃ。

ちなみに、眼下にあるこんもりしたところが茶臼山茶臼山古墳とよばれる5世紀頃の前方後円墳だが、大阪冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田信繁(幸村)が本陣をおいた場所だ。標高26mの山だけど、攻める側と守る側の双方にとって、戦略上の要所だったわけ。なお、真田信繁については「幸村」の名で広く知られているけれど、その名が使われているのは、じつは後世の軍記物だけ。直筆の書状など、生前の史料で「幸村」の名が使われているものは無く「信繁」が正しいらしい。

ということで、ここではとりあえず「信繁」とさせてもらうぞ。

茶臼山天王寺口の戦い

茶臼山の周囲は天王寺公園となっている。ビリケンさんがいらっしゃる通天閣もよくみえる位置。入場料を払い、遊歩道を歩いていき、美術館をぬけると、小さな池がみえてくる。

茶臼山
 

この池は「河底池」。茶臼山に架かる橋は「和気橋」。和気清麻呂が旧大和川の流れを変えるために上町台地を開削した際、古墳の濠を利用した名残だそうじゃ。

で、橋を渡って茶臼山に入るとこんな案内板が……

大河ドラマ放送開始までには、もうちょっとましなものにつくりかえてほしいと思うぞ。真田信繁は戦国有数のヒーローだし、堺雅人さんファンが聖地巡礼に訪れることもあるんじゃから。

茶臼山

さて、天王寺口の戦いについて徳川家康の策略により、すでに丸裸となった大坂城をめぐり、慶長20年(1615)5月7日、真田信繁の赤備え3,500と松平忠直軍15,000が、ここ茶臼山周辺で激突する。そのときの真田勢の奮戦ぶりを「薩摩旧記」で島津忠恒がこう記している。

五月七日、御所様の御陣へ真田左衛門かかり候て、御陣衆追いちらし討捕申し候、御陣衆三里づつ候衆は皆生き残られ候、三度目には真田も討死にて候、真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由、惣別これのみ申す事に候

真田勢の吶喊猛攻により、徳川勢は大混乱。家康が本陣に攻め込まれたのは、武田信玄との三方ヶ原の戦い以来で、このとき家康は自害を覚悟したほどだったという。このあたりは小説やドラマでおなじみじゃな。

ちなみに、茶臼山の頂上にのぼってみたけれど、とくに眺望がいいとかそういうこともない。このまま帰るのも残念なので、天王寺公園の北側の門から抜け出し、真田信繁 終焉の地とされる安居神社に立ち寄ることにした。

茶臼山

真田信繁終焉の地とされる安居神社

四天王寺近くの安居天神、安居天満宮。祭神は少彦名神菅原道真。信繁は、この神社の境内にあった松の木で休息していたところ、追手の松平忠直隊の鉄砲頭・西尾仁左衛門に、「もう戦う気はない。手柄にせよ」と、自ら首を差し出したといわれている。
享年49。

ただ、戦死した場所については、この付近の田んぼだという説もある。また、昨年発見された越前松平家に伝わる古文書では、乱戦の中で仁左衛門が「よき敵」と遭遇し槍で討ち取り、その後、信繁の首とわかったという記述があったとか。まあ、いずれにせよ、信繁が家康をあと一歩のところまで追いつめたということにはかわりがないわけで、そのあたりの詮索は野暮というものじゃ。

安居神社の境内には石碑と銅像が建てられ、命日である 5月 7日には、真田幸村祭が行なわれている。ちなみに、この「さなだ松」は2代目だそうじゃよ。

 
大坂冬の陣の後、家康は信繁のもとへ叔父の真田信尹を遣わし、信濃40万石を条件に調略しようとした話がある。あまりに破格の条件だし、信繁も真に受けることなく断ったということだが、家康が信繁の力量を恐れていたことは確かだろう。そんな日本史上のヒーローで人気者の真田信繁だから、この境内の像はちょっとイケてない感じも……

なお、大坂落城後、京都ではこんなわらべ歌が流行したらしい。

花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり加護島(鹿児島)へ

豊臣秀頼真田信繁に守られて城を抜け出し、薩摩へ逃れたと。たしか、秀頼は祖父の・浅井長政ゆずりの巨漢で、信繁はわりと小柄な人だったはずで、この歌はいかがなものかと……人々の判官びいきがつくりだした俗説じゃろうが、それだけ庶民の間では人気があったということか。

真田幸村 真田信繁