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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

高倉健さんが亡くなりました。ご冥福を……

俳優の高倉健さんが亡くなりました。83歳とのこと。

健さんといえば、「幸福の黄色いハンカチ」や「南極物語」「鉄道員(ぽっぽや)」、そして数々の任侠映画。マイケル・ダグラス松田優作と共演した「ブラック・レイン」も印象的じゃった。寡黙で不器用な日本男子といえば、やはり健さんじゃろう。
ところで、高倉健さんといえば、ワシら北条氏の末裔であることは、けっこう有名じゃ。鎌倉の北条高時腹切りやぐらには、健さんの名前が記された塔婆があるのを見たことがある方も多いじゃろう(多くないかw)
高倉健さんの本名は小田剛一。福岡県の出身で、ご子孫は名越流の北条篤時にあたるとか。

 

名越流は北条義時公の次男・朝時を祖とし、得宗家につぐ家柄で、プライドも高かったんじゃろう。得宗家とはしょっちゅういざこざを起こし、粛清されたりしている。
じゃが、ワシの頃には得宗専制が定着していたこともあり、関係は良好だったようじゃ。というか、もはや鎌倉幕府は揺らぎに揺らいでいましたから、同族でもめている場合ではなかったのかもしれん。上方で元弘の乱が起こるや、名越高家は鎌倉方の大将軍として、足利高氏とともに、上洛している。
太平記」には、東勝寺で北条高時とともに一族郎党が自刃する場面が描かれていますが、そこに「苅田式部太夫篤時」という名がある。吉川栄治さんの『私本太平記』でも、その場面は描かれている。
だが高時も、どうにもならない現状は知っている。煩悩ぼんのうにすぎないものとは分っている。ぬかずいている爺をすてて、彼はもう荒々と歩いていた。また、くるりと、こっちへ引っ返していた。その足もとを、火のチリを交ぜた熱風が、いくたびとなく掃いて行き、谷やつのふところは、夜のような煙にとじこめられ、一瞬、東勝寺堂塔の瑶珞が、遠くの炎に、チカと光った。
「まっ赤だな、今日の太陽は」
高時は、上を見た。
たえず何か言ってないと、おそろしい寂寥に体のうちを吹き抜かれる。そしてたまらない淋しさが襲いかかり、自分を虚空へ攫って行きそうにでも思われるふうだった。
「見ろ……」
ふと、あたりの沈黙の陣を見て言った。堂の下、山門の蔭、広前いちめん、高時と共に在る一族御家人の影は、このかなしい主君を繞って、みな岩のように固く黙っていた。
「あの不吉な色の日輪を見ろ。この業火では蝶も鳥も生きてはいられん。こんな後で、何が生き残るのだ。生き残って何の愉しみがあるというのだ。ろくな世が来るはずはない」
たれへともなく罵っていたが。
「秋田の延明。城ノ介延明はいるか」
「はっ。おりまする」
「刈田式部は」
「はっ。篤時はここに」

北条篤時の事績についえは、正直、あまり知られていない。ググってみると、鎌倉幕府滅亡後、篤時の子は西国へと逃れ、子孫は北条の名を捨て、やがて「小松屋」という両替商を営み、江戸時代には名字帯刀を許されて小田姓を名乗るようになったと出てきた。

手元にある鎌倉時代の人名辞典には篤時の名はなくて、わずかに北条時章の子とある。ただ、時章の子ということになると、鎌倉幕府が滅亡したときには、かなりの高齢だし、没年がおかしい気もする。「篤時」という「太平記」の記述は、まちがっているのかもしれんね。

そのことはさておき、健さんは、篤時の子孫、北条の末裔として、何度もこの場所を訪れ、ご先祖の供養をされていたそうじゃ。

ここに謹んでご冥福をお祈り申し上げます。