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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

長篠・設楽原の戦い…信長の三段撃も、武田騎馬隊の馬防冊への吶喊攻撃も教科書とはちょっと違うようで……

天正3年5月21日、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が雌雄を決した長篠設楽原の戦い。織田信長が当時最強といわれた武田騎馬隊に対して3000丁の鉄砲を用意し、三段撃という新戦法で壊滅的な打撃を与えた、あの有名な合戦じゃ。

信長が武田騎馬隊の進撃を防ぐために築いた三重の馬防冊のレプリカがあるというので、立ち寄ってみることに。

長篠の戦い、馬防冊 

馬防冊、土屋昌続の奮戦

新城市設楽原歴史資料館のすぐ近く、畑のど真ん中に馬防冊があった。なんとものどかな風景で、まさに「兵どもが夢のあと」といった感じじゃが、それでも、冊の内側から向こう側をのぞいていると、あの映画「影武者」でみた武田騎馬隊が、いまにも吶喊してきそうな気がする。

初陣の川中島の激戦で武田信玄の側を離れず守り抜き、三方原の戦いでは鳥居信之との一騎打ちで勇名を馳せた土屋昌続。長篠の戦いでは、劣勢の中、滝川一益勢を撃破。三重冊の二重を破り、さいごの柵にとりついたところを狙撃され、華々しく戦死している。

こんな狭いエリアに織田・徳川軍が密集していたのだとすれば、一箇所でも突破口があけば、戦況はがらりと変わっていたのかもしれん。なんせ相手は当時最強といわれた武田騎馬隊じゃからな。

土屋昌続、馬防冊
 

信長の三段撃はなかった?

じゃが、帰宅してからいろいろ調べてみると、この長篠の戦いについては、いろいろと従来のイメージを覆すような説が出ているようじゃ。

まず、信長の三段撃は後世の創作だ、という説。武田騎馬隊を引き付け、鉄砲千挺づつを交替して撃ち放つというこの戦法、NHKの検証番組で試してみたところ、じっさいにはうまくいかなかったというのじゃ。

火縄銃は火縄が消えたり、内部にかすが残って詰まってしまうといったことが頻繁に起きるので、一定間隔で撃ち続けることは難しいとのこと。また、そもそも「信長公記」には、この画期的な三段撃の記述がなく、江戸時代に記された「甫庵信長記」に記されているだけ。それを明治陸軍が「日本戦史」の中で紹介したことから、現在の長篠の合戦のイメージが定着したというんじゃ。

たしかに、こんな狭いエリアで秩序正しく三段撃をするなんて、よほど訓練された兵でなければできない芸当かもしれん。とはいえ、この戦いで信長が鉄砲を効果的に活用したことは「信長公記」にも書かれており、それが織田・徳川連合軍の勝因になったことはまちがいないから、まるっぽ創作というわけではないようなんじゃが、でも、わざわざ訪問したワシとしては、いささか興ざめじゃのう……

長篠の戦い、馬防冊

武田騎馬隊の吶喊もじつは……

それよりも衝撃なのは「武田騎馬隊」のことじゃ。というのも当時、馬は移動手段のひとつにすぎず、ルイス=フロイスは「われらにおいては馬上で戦うが、日本人は馬から下りて戦う」と記している。

しかも当時の合戦では、指揮官は馬に乗るものの、他の者は徒歩で戦うのがふつうであり、武田軍においても、その大半は騎馬ではなく歩兵だったというのじゃ。つまり、武田騎馬隊の密集突撃という戦法がそもそもなかったというわけ。

おまけに当時の日本馬はサラブレッドのような大きな馬ではなく、今でいうポニーくらいだといわれているから、ちょっと迫力という面でも……

長篠の戦いは当時最強の武田の騎馬突撃を信長が三段撃で迎え撃った、という映画「影武者」のラストシーンのようなイメージは、どうやら修正しなければいけないのう。

長篠の戦い 馬防冊

長篠の戦いの勝敗を分けたものは?

さて、長篠の戦いの勝敗を分けたものは、なんだったんじゃろうか。それはなんといっても単純な兵力差ということに尽きるじゃろう。

長篠に臨んだ織田・徳川連合軍は3万8000、いっぽうの武田軍は1万5000。数の上でも優勢な織田・徳川軍が、しかも野戦築城ともいえる防御陣をしいていたんじゃから、勝敗の行方ははじめから決まっていたというわけじゃよ。

「甲陽軍鑑」によると、設楽原に織田の援軍が到着したことを知った山県昌景ら重鎮は、武田勝頼に撤退を進言するも、勝頼はその意見を容れず、信玄以来の宿老たちはひそかに死を覚悟し、水盃をかわしたという記述がある。これが史実かどうかはわからんが、勝頼だって兵力差は認識していたはず。それでも勝頼が設楽原に兵をさしむけた理由は何だったんじゃろうか。

長篠の戦い


勝頼には選択肢がなかったんじゃ。そもそも長篠への出兵目的は、徳川に寝返った奥平氏が籠る長篠城を落とし、三河に橋頭堡をつくることにあったはず。しかし思いのほか長篠城の抵抗が強く、長丁場になってしまったところへ、織田の援軍が出張ってきた。

もちろんここで兵を引く決断をしていれば大敗を喫することはなかったけれど、それでは今回の出兵そのものが失敗ということになる。すでに足利義昭は放逐され、浅井、朝倉も滅んで信長包囲網が瓦解している今、どこかで織田信長を叩いておかなければ、両者の勢力差はますます大きくなるばかり。

勝頼は、父・信玄も攻めあぐねた高天神城を落としたという自負もあり、自信もある。
いずれ織田とは雌雄を決しなければならないのであれば、ここは乾坤一擲、勝負に出て……そう考えたのかもしれぬ。慢心といえば慢心、若気の至りといえばそれまでじゃが、そんな感じではなかったかと。

もちろん、こうした展開は野戦陣地を築き、鉄砲で待ち構える信長の望むところであったじゃろう。

長篠の戦い

さらに決戦当日の朝、酒井忠次率いる4000の織田。徳川連合軍の別働隊は、長篠城を包囲中の武田軍が籠る鳶ヶ巣山砦を陥落させることに成功。これにより武田軍は腹背に敵を受けることとなり、退路を断たれた勝頼は、強兵を頼んで設楽原へ遮二無二つっこんでいく。その結果、武田軍は山県昌景、内藤昌豊、原昌胤、馬場信春ら、信玄以来の名だたる武将を失い、勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら、信濃へと敗走していったというわけ。

まさに信長の計画通り、といったところでしょうし、そう考えると、鳥居強右衛門が長篠城を命がけで守ったことが、戦略上、とても有益であったということじゃな。