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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

足利三代木像梟首事件…其の罪悪の実に容すべからざる、天地神人ともに誄する所なり

今日2月22日は、足利三代木像梟首事件が起こった日。幕末の文久3年2月22日(1863年4月9日)に、京都の等持院にあった室町幕府足利尊氏、義詮、義満の三代将軍の木像の首が、尊王攘夷を掲げる不逞浪士らによって賀茂川の河原に晒された事件じゃ。

 

事件そのものは、じつにくだらない、たわいもないきっかけだった。ある日、平田派国学の門人が、等持院に「逆賊足利尊氏」の木像をみにいったところ、拝観料として銭200文を要求され、「醜像を観るのに賽銭を払わせるとはどういうことか!」と憤慨しする。そこで、その腹いせに、同士と語らい、足利三代の木像を盗み出し、首を斬り目をくりぬいて、位牌とともに三条河原に晒したんじゃ。

そして、梟首した木像の側には、斬奸状が掲げられた。

逆賊足利尊氏・同義詮・同義満名分を正すや今日にあたり、鎌倉以来の逆臣一々吟味 を遂げ謀戮に処すべきところ、この三賊臣巨魁たるによって、先ずその醜像天誅を加えるものなり 
此の者どもの悪逆は、已に先哲の弁駁する所、万人の能く知る所にして、今更申すに及ばずと雖も、今度、此の影像どもを斬戮せしむるに付いては、贅言ながら、聊かその罪状を示すべし。抑も此の大皇国の大道たるや、只だただ忠義の二字をもって其の大本とする、神代以来の御風習なるを、賊魁鎌倉頼朝、世に出て朝廷を悩まし奉り、不臣の手始めを致し、ついで北条・足利に至りては、其の罪悪の実に容すべからざる、天地神人ともに誄する所なり

源頼朝公、北条氏も悪し様にいわれておるw そして、斬奸状はこう結ばれていた。

今の世に至り、此の奸賊に猶ほ超過し候者有り。其の党許多にして、其の罪悪、足利等の右に出づ。もしそれらの輩、旧悪を悔い、忠節を抽んでて、鎌倉以来の悪弊を掃除し、朝廷を補佐し奉りて、古昔を償ふ処置なくんば、満天下の有志、追いおい大挙して罪科を糾すべき者なり。

徳川幕府をあからさまに非難し倒幕の意志を示すこの文章に、京都守護職松平容保は大激怒。もともと容保は、不逞浪士たちの行為も国を想ってのことと一定の理解を示し、わりと寛大な態度をとっていた。そればかりか、まず相手の言い分をよく聞こうという「言路洞開」の姿勢をとっていたんじゃが、さすがにこの品のない行状には堪忍袋の尾が切れたんじゃろう。ちょうど将軍家茂が上洛する直前のこの事件。以後、会津藩壬生浪士組、のちの新選組をお預かりとし、厳しく対処していくことになる。

ところで幕末の時代、攘夷志士たちは水戸学に大いに影響されていた。この足利三代木像梟首事件も、南朝こそが正統で後醍醐天皇を裏切った足利尊氏は逆賊、という考え方が根底にあるわけじゃ。
ただ、当時の孝明天皇北朝の血統。当然のことながら宮中でも北朝を正統とする公家が大半じゃった。となると、尊氏を逆賊として非難するというのは北朝の否定、ひいては当時の天皇を蔑ろにすることにつながりかねないわけで……
このあたり、尊攘派の連中はどう考えていたんじゃろうか。酒などのみながら、「いまのミカドは北朝だからさ、ほんとうは正統じゃないんだよね〜」なんて、話題にしていたのかもしれん。

明治以後、この「南北朝正閏論」は大いに議論の対象になる。南朝が正統で、北朝は「閏」、つまり偽物ではないけど正統ではない、という考え方じゃ。それにしても「閏」とはまた、うまい表現を考えたもんじゃな。

ちなみに、後醍醐天皇を廃して持明院統光厳天皇を即位させ、その「閏」をつくったのは、「其の罪悪の実に容すべからざる」北条高時、つまりワシじゃ。

もっとも、ワシの息子の北条時行は、後醍醐天皇から朝敵恩赦を受けて正統である南朝に属して、逆賊の足利と戦っているから、すでに北条氏尊攘派の連中から後ろ指をさされる存在ではないわけじゃがな。