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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

長崎高重…武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組まん

鎌倉のいちばん長い日、5月22日が近づいてきたな。もっとも、そんなことを気にしている鎌倉市民はほとんどいないでしょうが、北条執権邸跡の宝戒寺では、毎年この日、北条高時の慰霊のために徳宗大権現会大般若経転読会がおこなわれておる。

 

鎌倉幕府が滅亡した戦犯としては、暗愚な執権・北条高時が真っ先にあげられるが、得宗御内人の長崎一族は、それに輪をかけて評判が悪いな。まあ、それはともかくとして、本日は東勝寺で自刃したあっぱれな若武者、高資の息子・長崎高重のことじゃ。

 

長崎二郎高重、大いに奮戦す

長崎高重、通称は二郎。諱の「高重」の「高」はもちろん主君であるワシ・高時の偏諱じゃ。
正慶2年(1333年)5月、長崎高重は新田義貞が挙兵する鎌倉防衛のために桜田貞国らとともに入間川へ出陣。小手指原、久米川、分倍河原で大いに奮戦するが、新田軍の勢いを止めることはできず、鎌倉へ敗走している。

長崎二郎高重、久米河の合戦に、組で討たりし敵の首二、切て落したりし敵の首十三、中間・下部に取持せて、鎧に立処の箭をも未抜、疵のろより流るゝ血に、白糸の鎧忽に火威に染成て、閑々と鎌倉殿の御屋形へ参り中門に畏りたりければ、祖父の入道世にも嬉しげに打見て出迎、自疵を吸血を含で、泪を流て申けるは、「古き諺に「見子不如父」いへども、我先汝を以て、上の御用に難立者也。と思て、常に不孝を加し事、大なる誤也。汝今万死を出て一生に遇、堅を摧きける振舞、陳平・張良が為難処を究め得たり。相構て今より後も、我が一大事と合戦して父祖の名をも呈し、守殿の御恩をも報じ申候へ。」と、日来の庭訓を翻して只今の武勇を感じければ、高重頭を地に付て、両眼に泪をぞ浮べける。

「お前がそこまでやるとは思わなかった」と、高重のあっぱれな活躍を、じいじの円喜は涙ながらにほめたたえている。しかし、この頃、六波羅陥落の悲報が鎌倉に伝わっており、いよいよここに、幕府は進退極まったのじゃ。

只今大敵と戦中に、此事をきいて、大火を打消て、あきれ果たる事限なし。其所従・眷属共是を聞て、泣歎き憂悲むこと、喩をとるに物なし。何にたけく勇める人々も、足手もなゆる心地して東西をもさらに弁へず。

右往左往する幕府首脳をよそに、討幕軍の勢いを目の当たりにしている高重は、このときすでに覚悟を決めてたのかもしれんのう。

高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組まん

5月22日、新田義貞が稲村ガ崎を越えて鎌倉に侵入。鎌倉はいよいよ最期の時を迎える。つねに先人として戦ってきた高重は、この日、葛西谷の東勝寺にワシのところに来てのう。「今一度快く敵の中へ懸入、思程の合戦して冥途の御伴申さん時の物語に仕候はん」と、最期の奉公を約束して出陣していったのじゃ。ワシは人目もはばからず涙して、それを見送ったんじゃよ。

「高重数代奉公の義を忝して、朝夕恩顔を拝し奉りつる御名残、今生に於ては今日を限りとこそ覚へ候へ。高重一人数箇所の敵を打散て、数度の闘に毎度打勝候といへ共、方々の口々皆責破られて、敵の兵鎌倉中に充満して候ぬる上は、今は矢長に思共不可叶候。只一筋に敵の手に懸らせ給はぬ様に、思召定させ給候へ。但し高重帰参て勧申さん程は、無左右御自害候な。上の御存命の間に、今一度快く敵の中へ懸入、思程の合戦して冥途の御伴申さん時の物語に仕候はん。」とて、又東勝寺を打出づ。其後影を相摸入道遥に目送玉て、是や限なる覧と名残惜げなる体にて、泪ぐみてぞ被立たる。

そして150騎を従えた高重は戦いを前に弁谷の崇寿寺を訪ねている。崇寿寺はワシが建立した寺院じゃ。最期の出陣にあたり高重は、「武士とはどうあるべきか」と南山和尚に尋ねたそうじゃ。

高重庭に立ながら、左右に揖して問て曰、「如何是勇士恁麼の事。」和尚答曰、「吹毛急用不如前。」高重此一句を聞て、問訊して、門前より馬引寄打乗て、百五十騎の兵を前後に相随へ、笠符かなぐり棄、閑に馬を歩て、敵陣に紛入。

覚悟は固めたつもりでも、やはり若者ゆえ、迷いはあったじゃろう。じゃが、「武士はただひたすら剣をふるって前に進むしかない」という和尚の言葉を胸に、高重は決戦に赴いていった。ひそかに敵陣へと紛れ込んでの乾坤一擲の勝負。ねらうはもちろん新田義貞の首ひとつ!

じゃが、新田軍の中に高重の顔を知っている者がおり、なんとも残念なことに、あと一歩のところでみつかってしまったんじゃ。

桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代前相摸守高時の管領に、長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重、武恩を報ぜんため討死するぞ、高名せんと思はん者は、よれや組ん」

かくして高重の名乗りに、功名心にはやる新田の兵が群がり、大乱戦となる。高重は大いに戦うが、ワシの最期の御供をするよう郎等に促され、葛西谷へと引き返すのじゃった。

早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進ぜ候はん

ワシとの約束を果たすため、東勝寺に戻ってきた高重主従は、わずか8騎になっていた。敵に一矢を報いた高重の活躍は、まさに北条武士の誉れじゃ。

高重が鎧に立処の矢二十三筋、蓑毛の如く折かけて、葛西谷へ参りければ、祖父の入道待請て、「何とて今まで遅りつるぞ。今は是までか。」と問れければ、高重畏り、「若大将義貞に寄せ合せば、組で勝負をせばやと存候て、二十余度まで懸入候へ共、遂に不近付得。其人と覚しき敵にも見合候はで、そゞろなる党の奴つ原四五百人切落てぞ捨候つらん。哀罪の事だに思ひ候はずは、猶も奴原を浜面へ追出して、弓手・馬手に相付、車切・胴切・立破に仕棄度存候つれ共、上の御事何がと御心元なくて帰参て候。」と、聞も涼く語るにぞ、最期に近き人々も、少し心を慰めける。

そして高重は、一族郎等の先陣をきって、従容として冥土へ旅立ったのじゃ。しかも、その自害の仕方がなんとも粋というか、派手というか……

去程に高重走廻て、「早々御自害候へ。高重先を仕て、手本に見せ進せ候はん。」と云侭に、胴計残たる鎧脱で抛すてゝ、御前に有ける盃を以て、舎弟の新右衛門に酌を取せ、三度傾て、摂津刑部太夫入道々準が前に置き、「思指申ぞ。是を肴にし給へ。」とて左の小脇に刀を突立て、右の傍腹まで切目長く掻破て、中なる腸手縷出して道準が前にぞ伏たりける。

なんと、腹切って、自分の腸を酒の肴にせよと自らつかみだしたんじゃよ。これでワシも覚悟が決まったというものじゃ。世間的には評判の悪い長崎一族じゃが、こんな硬骨漢がいたことを覚えておいてほしいのう。