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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

「農民にキンタマ蹴られて死亡」とか、小早川秀秋をそこまで悪くいわなくても…

戦国・江戸

大関ヶ原展」でどうしても気になった存在なのが小早川秀秋。「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と、大谷吉継に呪われて、関ヶ原の戦いからわずか2年後の慶長7年(1602))、岡山城で狂乱して死亡したという逸話も有名じゃ(たぶん創作)。今回は、日本史上もっとも有名な「裏切り者」、金吾殿こと小早川秀秋さんについて書こうと思うぞ。

そもそも小早川秀秋は、なぜ徳川に味方したのか?

おねさんの兄・木下家定の五男として生まれた秀秋さん。子どもがいなかった秀吉は、秀秋さんをたいそうかわいがり、将来に期待をかけていた。しかし、秀頼が生まれると運命は急変。一転して小早川家に養子に出されてしまう。
当初、秀吉は毛利家との養子縁組を考えていたようじゃが、「こんなわけわからん男に毛利本家を継がせるわけにはいかない」と、小早川隆景が自ら養子にもらい受けるよう申し出たといわれている。

とはいえ、秀秋さんは豊臣家の公達です。本来なら関ヶ原では西軍に味方するべきなのじゃが、当初から徳川方につく意向を固めていたようじゃ。というのも、秀秋さんは朝鮮で大活躍したのに石田三成に讒言され、秀吉に筑前名島30万石から越前北ノ庄15万石に移されてしまい、三成のことを恨んでいたというのじゃ。

ただ、秀秋さんの大活躍は一時資料にはみられないようだし、讒言云々も三成を貶めるための後世の創作とされている。しかし、秀吉の死後、徳川家康のおかげで旧領に復帰しているから、家康に恩を感じていたのは確かなようじゃな。

北政所おばさんの影響も無視できない。小説などでは、北政所おばさんを訪ね、東西どちらにつくかを相談したところ、「治部少輔はいけません。徳川殿こそ、豊臣家の頼りとすべきお人でありましょう」と諭されたりしている。事実、北政所の意向に沿って徳川につくよう示唆した浅野幸長、黒田長政からの書状も残っておる。

もっとも石田三成の末裔という白井亨氏が、北政所はじつは石田三成を支持しており、徳川家康を支持していたのは淀殿だったという研究成果を発表しているから、断定的なことはいえないけどね。

とにかく、秀秋さんは当初から東軍につくと決めていたようじゃ。現に西軍による伏見城攻めの前に、秀秋さんは城将・鳥居元忠に密かに加勢を申し出たという話がある。幸か不幸か、元忠からは入城を拒否され、やむなく伏見城攻めの副将として戦いに加わるが、このあと関ヶ原の戦いまでは病気と称して西軍の軍勢には加わらず、家康に味方をする旨の書状をせっせと出していたりするのじゃよ。

松尾山に陣取った小早川秀秋

石田三成畿内を制圧し、尾張三河国境付近で東軍を迎撃。背後から上杉・佐竹軍と挟撃する作戦を考えていたようじゃ。しかし東軍が信長直系の三法師さまこと織田秀信が籠る岐阜城を落とすと、木曽川を決戦ラインと定め、軍勢を大垣城に集結させている。

いっぽうの東軍先鋒隊は美濃赤坂に軍を進め、大垣城の西軍と対峙。遅れていた徳川家康本軍も出張ってきた。そして慶長5年(1600)9月14日、前哨戦ともいえる杭瀬川の戦いで、西軍の島左近明石全登が東軍の中村一栄・有馬豊氏を破り気勢をあげたその日、秀秋さんが関ヶ原にあらわれるのじゃよ。

秀秋さんが陣取ったのは松尾山。ここにはすでに西軍の伊藤盛政が布陣していたのじゃが、秀秋さんはこれを追い出し、占拠してしまう。松尾山は大坂方面からの兵站を確保するための要衝。こんなところに秀秋さんが勝手に居座ってしまったのじゃから、西軍諸将はさぞかし驚いたことじゃろう。

当初から西軍では「小早川は裏切るのではないか?」という疑念を抱いていたという。そこで三成は、秀秋さんに上方2国と秀頼が15歳になるまでの関白職という破格の恩賞を提示し、引き止め工作を行っている。そんな疑惑まみれの秀秋さんが松尾山を占拠してしまっている状態はいかにも危うい。そこで西軍は大垣城を出て、関ヶ原へと兵を展開。それを察知した東軍も関ヶ原へと兵を進め、翌15日午前8時、天下分け目の戦いがはじまるというわけじゃ。

この松尾山占拠という行動が秀秋さんの判断なのか、重臣たちの作戦なのか、あるいは徳川家康からの指示なのか、それは定かではない。じゃが、そのおかげで家康は得意な野戦にもちこめたわけで、これは小早川軍の功績であり、もっと評価されてもよいと思うんじゃが、どうじゃろうか。

小早川秀秋の裏切りを促した「問鉄砲」はなかった?

合戦の様子については長くなるので書かないけど、ひとつだけ。それは、小早川秀秋の裏切を促したとされる「問鉄砲」のことじゃ。

小説などでは、松尾山に陣取った秀秋さんが東につくか、西につくか、優柔不断で決断できないでいたところ、しびれをきらした徳川家康が山麓から松尾山山頂に向けて鉄砲を撃ちかけたらという話が出てくる。「内府は怒っている!」と恐怖した秀秋さんは、ようやく裏切りの下知をくだしたという、あの話じゃな。

ただ、この問鉄砲の話もじつは同時代の一時資料にはなく、江戸中期の文献でようやく出てくるとのこと。これもまた話をおもしろくするための創作ではないか、といわれておる。

じっさい、山麓から鉄砲を撃っても小早川の陣には届かないし、戦場ではそこらじゅうで銃が乱射されているんだから、10や20の銃声ではそれに気づくはずもなし。やはり神君家康公の器量を大きく見せるために、秀秋さんは暗愚な人物として脚色されたと考えたほうがよいじゃろう。
となると、秀秋さんは自分の判断でベストなタイミングに兵を動かした、ということになる。素晴らしい戦術眼ではありませんか!

戦いの帰趨は一進一退、やや西軍が押していたといわれているが、そうした戦況は松尾山からは手に取るようにわかったはず。おそらく秀秋さんは、東西両軍が披露し、いまだ無傷の徳川本体が出てくる直前を見計らって、兵を動かしたのに相違ない。なので秀秋さんの裏切りはもちろん事実ではありますが、少なくとも優柔不断で日和見をしていたと決めつけてはいけないのじゃよ。

かくして秀秋さんの返り忠により、戦いは東軍の勝利に終わる。諸将はつぎつぎに家康のもとへ、戦勝の祝賀を述べにやってくる。しかし、一番手柄のはずの秀秋さんがなかなか現れず、家康が使いをやって、ようやく出てきたという話も伝わっておる。これは決断の遅れを家康に叱られるのを恐れたためといわれている。じゃが、そもそも「問鉄砲」がなかったわけじゃから、この話も創作と考えてよいじゃろう。あるいは秀秋さんは、どこまでも謙虚な性格だったのかもしれんがの。

 

後世に伝わる小早川秀秋の酷い最後

そんな秀秋さんですが、それからわずか2年後に、21歳の若さで急死している。死因として世に流布しているのは、捕えられた石田三成に罵られたのを生涯苦にしているうちに神経衰弱となり、酒によるアルコール過多で内装疾患で死亡したというもの。

ただ、俗書の類ではさらに言いたい放題、あまりにも酷い言われようじゃ。

  • 大谷吉継の呪いによる狂乱死
  • 毛利、豊臣、あるいは徳川による暗殺
  • 小姓を手討ちにしようとして返り討ち
  • 殺生禁止の川で魚を獲った帰りに落馬
  • 山伏の両手を切り落としたが蹴り殺された
  • 領内巡察中に農民に陰嚢を蹴りつぶされて死亡

足利尊氏松永久秀明智光秀など、歴史上、裏切りを働いた者などいくらでもいるのに、どうも小早川秀秋さんは悪く言われすぎじゃ。日本最大の合戦でのド派手な返り忠のわりに小僧っぽい秀秋さん。ここまで貶められるという人物も、かなりめずらしい。いまでも「小早川」という苗字の子ども、歴史で関ヶ原を習ったあとに、「裏切り者!」といわれるという冗談話も聞いたことがあるけどね。

ちなみに広島東洋カープヤクルトスワローズで活躍した小早川毅彦さんは、再興なった小早川家の子孫だと聞いたことがある。ほんとうかどうかは知らんけどね。

もし、小早川秀秋が長命で、また小早川家が長く続いていたとしたら、もう少しましな伝わり方をしたかもしれんぞ。ひょっとしたら「徳川家康を救い、天下を取らせたのは小早川秀秋である」と讃えられたかも。

そもそも「裏切り者」というならば、徳川家康こそが豊臣家への「裏切り者」なわけじゃよ。それが東照大権現として神様として崇められる一方、小早川秀秋関ヶ原の戦いのダークな部分をぜんぶ背負って死んでしまうという、つくづく損な役回りというか、理不尽さを感じんじゃよ。

小早川秀秋という人は暗愚で主体性のない人のように描かれがちじゃが、文禄慶長の役で疲弊した農村の復興のために農民保護の政策をとるなど、短期間ながらも優れた内政手腕をみせたという事実もある。

歴史は勝者がつくるものなんだなとつくづく。このブログで、小早川秀秋の無念を少しでも晴らすことができていれば幸甚です。

ワシも同じように後世、暗愚よ、うつけ者よ、と罵られているからさ。