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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

吉川英治『私本太平記』の鎌倉炎上、北条高時最期の場面を読み返してみたが…世の中、謡のようには参らん

今日5月22日は、北条一門が自刃し、鎌倉幕府が滅亡した日。ということで、パラパラと吉川英治さんの『私本太平記』を読み返してみた。同書の北条高時の名台詞などをご紹介するので、味わってほしい。

北条高時腹切櫓(神奈川県鎌倉市)
生来、蒲柳の質だったわし。若くして得宗の家督を継ぎ、執権職につくものの、政治の実権は内管領(得宗被官のボス)の長崎父子に握られたままじゃった。じゃが、古典「太平記」にあるような、酒浸りで闘犬田楽にうつつを抜かし、政治を顧みなかったという描写は、流石に誇張のしすぎである。
「ばかな。この高時のどこが病者か。病人は天下の奴輩だ。上は主上公卿の堂上から下種にいたるまで、天下惣気狂いとなっている現状には相違ない。しかるに、この高時ひとりをみな狂人視いたしおる。おまえたちまでがわしを変だと思うのか」 
「しかたがあるまい。人間がみんなどうかしてしまったのだ。冬の梢のように、一ト葉も残らず、枯れつくし、死に尽くさねば、この業は熄まないかもしれないのだ。おそろしいことになった。ああ、苦い。口が苦い。酒をもってこい」

そんなわしに同情的で、常に優しく接してくれたのが金沢定顕の爺じゃ。ほんとうに感謝しておる。

政略、勢力争い、すべて四囲の人間が、自分らの保身と、相手の擡頭をふせぐため“うつつなき人”高時は道具にされていたようなものでしかない。しかもその人は、生れながらの病弱で、長じてからも瘋癲の持病があり、周囲はそれも知りぬいていた。そして暗君、風狂、奢侈、安逸、あらゆる悪政家の汚名はいま高時の名にかぶせられて来たが、高時にいわせれば、じぶんの知ったことではあるまい。だが決して、そうとはいわず、また考えるでもなく、我には当然な天職と思いこんで、その執権の座に、衆臣の畏伏や美言をそのまま信じている高時が、金沢ノ老大夫には一そうあわれでならなかったのだ。

代々縁戚関係を結び北条一門といってもよいくらい厚遇してきた足利家。その裏切りは痛かった。そして新田が裏切り、結城が裏切り、三浦も千葉も裏切り。この北条の凋落を前に、わしらはどうすることもできなかった。

「わしは世間を眺めて思うのだ。裏切ったやつがまたいつか人を裏切り自分を裏切る日が来なければ倖せだと。……恐ろしさも、こうなると、いっそ、面白の世やと、謡拍子にして謡いとうなる」 
「みな聞け。いまも金沢ノ大夫に申したが、近ごろ武門は寝返り流行りとか。遠慮はないぞ。鎌倉を出たい者はこのさい新田へ走るがいい。さきには足利、結城、いやあんなに、わしが可愛がっていた道誉すらもだ。見事な寝返りを見せおった。……いわんや、高時がさして目もかけなかった輩の寝返りはむりとも思わん」 
「だが言っておく。高時は一人となってもここで戦う。高時にはほかへ逃げて行く国もない。鎌倉はわが祖先の地だし、わしが当代の工匠どもをあつめて地上の浄土を創るべく工芸の粋で飾った都だ。人間の都とは、人間がたのしく暮らしあうための楽園だろ。その花園を兵馬で蹂躪するやつがあれば、高時とて坐視していられぬ。高時と鎌倉とは一つものだ。守って見せる。見せいでか」

裏切ったやつがまた裏切る……これぞまさに「太平記」の世界じゃ。

東勝寺跡

東勝寺跡(神奈川県鎌倉市)

さて、新田義貞の軍勢がいよいよ迫ってきた。わしらは葛西谷の東勝寺で、最期の時を迎えようとしていた。東勝寺は、13世紀中頃、北条泰時公が創建した得宗家の氏寺じゃ。

「あの不吉な色の日輪を見ろ。この業火では蝶も鳥も生きてはいられん。こんな後で、何が生き残るのだ。生き残って何の愉しみがあるというのだ。ろくな世が来るはずはない」 
「むむ、思い出す。こんな日が来るぞよと、母の尼公は、わしの顔さえ見れば、きつう申した。それがうるさいので寄りつかなんだが……。今朝からはしきりと、幼い頃の、添い寝の母が思い出されてならなんだ……高時が行くところたちまちそこは兵火となる。……お会いは出来ぬが安心いたした。長い間ご不孝をおかけしましたと、おつたえ申しあげてくれい」 
「わしに殉じて死にたいと望むのか。……はての。この高時が、そんな倖せ者とは思わなんだ。死出の道、賑やかなことではある。さあ、みなも飲め、あるかぎりな酒がめ相手に、討死しよう。生じ雑兵の手にかからんよりは、酒を相手に、杯を手に」
高時はもちろん名君ではなかった。じゃが、世が世なればこれほどまでに後世、悪し様にいわれることなく、名もなき平凡な執権、得宗として、平和で幸せに一生を終えたかもしれん。後醍醐天皇というとんでもない帝が出てきてしまったことは、いかにも不幸じゃった。
もし、北条義時公、時頼公、時宗公だったらあるいは……という思いはなきにしもあらずじゃが、時勢に乗って攻めてくる連中には勝てるはずもなし。
「いわれなくても、わしは自分を知っていた。高時は悧巧な人間では決してない。ましてや、北条氏中興のお人、泰時公、また最明寺時頼公。そんなお方にくらべられたら、途方もない、不肖な子孫ではあったろうよ。……だが聞け。一族の衆」 
「この火の雨を避けたいばかりに、わしは朝廷へは、できるだけ譲って来たぞ。諸大名にも、権力をかざすなく、諸民にも、仲よく暮らせと祈って来た。人のためにではない、わしのためにだ。何よりも高時の念願は、せっかく、北条九代の裔に生れたのだから、世の人々と共に世を愉しみ、与えられた身の生涯を一代おもしろく送りたかった……。そこが暗君か。はははは、何せいこの高時、凡君にはちがいなかった」 
「わしは暗君。わしの願望などは、たわけた痴人の夢だったぞ。わはははは」 
「世の中、謡のようには参らん。さような訓(おしえ)にはなったことか。さらば高時もあまんじて地獄に落ち、世の畜生道を、しばし泉下せんかから見物するか。……」
ただ、鎌倉が炎上する中、気になったのは愛犬たちのことじゃ。
「あっ、うかと、忘れていたわ! (長崎)新右衛門、畜生たちをだ。あわれ、ほんとの畜生たちをつい忘れておった。この有様では、鳥合ヶ原の犬小屋も火の雨をまぬがれえまい。かしこの犬小屋には、高時を慰めてくれた高時の愛犬何百匹が、檻をも出られず、餌のくれてもなく、哭き悲しんでいることだろう。犬小屋の錠を破って、犬どもをみな放してやれ。新右衛門、すぐ行って、放してやれ」
これで思い残すこともなく、高時は最期のときを迎える。
「太守。おこころ支度ができましたか」
言ったのは、春渓尼。その、さり気なさは、まるで遊山の誘いかのようで、手くびの数珠が、美しい指に懸け直されただけでしかない。
「尼前……。そこにいて、よう見とどけておくりゃれ」
すぐ、手の短刀は鞘を捨てた。しかし、そのとき高時の眼は発作的に、あらぬ方を見て光った。……わああっという新田勢の潮の声が体を吹き抜け、ふと彼の病質と肉の薄い兎耳をぴんと尖がらせたのだった。
「来たか! 来たのか?」
「いえ」
と春渓尼は、一ばい静かに。
「ごゆるりと遊ばしませ。敵を山門内に見るには、まだ間がございましょう。……オオ死出の道、お淋しそうな。むつらの御方、お妻のお局、常葉の君も、みな私に倣ならって、太守のおそばにいてさしあげたがよい」
花の輪が、高時をかこんだ。彼女らはそれぞれ泣き乱してはいたが、この期となると、一人も泣いていなかった。春渓尼の唇から洩れる名号の称えに和しながらみな掌を合わせた。
するとその中のまだ十六、七にすぎぬ百合殿の小女房が「皆さま、おさきに!」と、まっ先に刃でのどを突いて俯っ伏した。その鮮紅に急せかれて、高時もがくと頸(うなじ)を落し、そして脇腹の短刀を引き廻しながら、
「尼前……。これでいいか。高時、こういたしましたと、母御前(ははごぜ)へ、おつたえしてくれよ。よう、おわびしてくれよ」
と、かすかな息で言った。
たちどころに、春渓尼のまわりは、すべて紅になった。高時に殉じて次々に自害して行った局たちは血の池に咲いた睡蓮みたいに、血のなかに浮いた。 
そのほか一門三十四人。譜代の側臣四十六人。すべて北条氏の門葉二百八十三人、みな差し違えたり、腹を切った。
すでに、葛西ヶ谷いちめんは、冷たいような猛火だった。極熱の炎が燃え極まると、逆に、しいんと冷寂な「無む」の世界が降りて来る――。
東勝寺の八大堂は、二日二た晩、燃えつづけた。あとには、八百七十余体の死骸があった。死なずともよい工匠たちの死体も中には見られたとか。――総じて、鎌倉中での死者は、六千余人にのぼったという。
吉川英治さんは、わしらしい最期を見事に描いてくれた。そして、大河ドラマでは、わしの悲しみを片岡鶴太郎さんが演じきってくれた。鶴太郎さんはじっさい、
ドラマのロケの前に、宝戒寺・徳宗権現と腹切りやぐら、そして廟所である仏日庵を訪れてくれたそうじゃ。ご覧になってない方は、ぜひDVDで!