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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

奥平謙輔と会津藩と白虎隊地蔵堂のこと

明日の大河ドラマ「花燃ゆ」に登場するかどうかはわからんのじゃが、今日は前原一誠の莫逆の友・長州藩士の奥平謙輔についてじゃよ。

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ここに5人の男たちが写っておる。

前列右に河井善順、左に前原一誠。そして後列右から会津藩士の永岡久茂、広沢安任、奥平謙輔。この写真が撮影されたのは戊辰戦争の後のこと。不倶戴天の敵どうしの会津と長州の面々が一緒に写っておるというのは、いささか驚きを禁じ得ないのう。ワシと足利尊氏が写っているようなもんじゃからな。で、その交遊のきっかけをつくったのが、奥平謙輔というわけじゃ。

奥平謙輔は長州藩、萩城下に生まれた。藩校明倫館で学び、とくに詩文に才を発揮したという。下関戦争でも活躍し、戊辰戦争では干城隊の参謀として報国隊、奇兵隊とともに長岡、新発田、新潟と転戦する。

会津藩秋月悌次郎とは旧知の仲で、かねてから交流が深かったようじゃ。会津坂下まできていた奥平は、鶴ケ城開城後、猪苗代で謹慎中の秋月に、会津藩士の戦いぶりを讃える手紙を送った。その手紙を届けたのが、さっきの写真に写っていた河井善順という会津の真龍寺のお坊さんじゃ。善順は西本願寺で学んでいたとき、蛤御門の変西本願寺がかくまった長州藩士を助けるべく、門前まで攻め込んできた会津兵に説得を行った豪胆なお坊さんだ。そんな度胸を見込んで、奥平謙輔は善順に秋月と会津を気遣う手紙を託したのじゃろう。

手紙を受け取った秋月ら会津藩士は、奥平の誠実な人柄に、暗闇の中に一筋の光明を見た思いがしたであろう。秋月は善順の従僕になりすまし、猪苗代の謹慎所を密かに抜け出し、会津藩復興の助力を乞うべく、奥平のもとを訪れる。

会津藩は奥平に、藩の将来を背負って立つべき3人の少年の後援を託す。そのうちのひとりが会津藩家老・山川大蔵の弟の山川健次郎。後にアメリカのエール大学に留学し、東京帝国大学総長に栄達した俊才じゃ。健次郎は部屋に奥平の書を掲げ、終生、その高恩を感謝しつづけたという。

この奥平謙輔の朋友が前原一誠。前原もまた会津藩に心をよせ、寛大な戦後処理を働きかけた。というわけで、長州人を蛇蝎のごとく嫌う会津人も奥平謙輔と前原一誠には特別な信頼を寄せていたようじゃ。その証拠が先ほどの一枚の写真というわけじゃな。

奥平謙輔は越後府権判事として佐渡に赴任するが、ほどなく職を辞し、長州へと戻っている。前原一誠が、新政府による士族への冷たい仕打ちにいたたまれなくなって下野したのと同じじゃな。そして前原一誠萩の乱を起こすと、奥平謙輔はその参謀役としてともに決起する。じゃが、時勢はすでに新政府にあり、あえなく奥平は前原とともに捕縛され、萩で斬首される。

ちなみに東京では、元・会津藩士の永岡久茂が前原、奥平に呼応し、千葉県庁を襲撃しようと計画したが、事が露見して捕えられている。これが思案橋事件じゃ。思案橋事件と永岡久茂については、またそのうち書くことにするとして、以下は萩の乱後のお話。

意外なことに萩には会津の白虎隊を慰霊する地蔵堂があるらしい。ワシも最近になってその存在を聞いたんじゃが、なんでもお堂には白虎隊自刃の様子を描いた石版画が掲げられており、「忠臣義士」の題字は会津候・松平容保によるものじゃ。この石版画は、まだ会津戦争の記憶も生々しい明治10年代に掲げられたらしいが、誰が奉納したのかはわからない。ただ、萩の乱で賊徒として討たれ、会津との縁が深かった前原党と全く無縁ということはないじゃろう。

会津士族も長州諸隊士も必死に戦い、多大な犠牲を払ったのに、気付いてみればみんな賊徒にされてしまった。高位高官にのぼり、得をしたのは一部の人間だけ。「攘夷」も「仁政」もどこへ行ったのやら……忸怩たる思いがあったのかもしれん。会津士族は徳川に利用され、長州諸隊は明治維新に利用され、あとはポイかと。

国家は、政治はいざとなれば冷たい。そして前原一誠や奥平謙輔のような「仁」の政治家は今も昔も珍しく、最後は悲運に斃れる結末が待っている。せめてワシのしょーもないブログ記事が少しでもレクイエムになればと……ならんわな、どう読んでも。

ちなみに、安倍晋三首相は長州、山口県出身。前原一誠とか、奥平謙輔とかをどう評価してるんじゃろうか。ちょっと気になってきたよ。