北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

此付近平氏六波羅第跡 六波羅探題府

先週、所用で京都にいってきたのじゃが、ついでなので六波羅に寄ってきた。

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六波羅は現在の京都市東山区、鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯のあたり一帯の地域のこと。天暦5年(951年)、空也上人がこの地に西光寺を建て、その高弟の中信が六波羅蜜寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれるようになったそうで、平家、北条家には縁が深い土地でもある。

平安後期、平忠盛がここに「六波羅館」を置き、この地は京における平家の拠点となる。清盛、重盛の代には六波羅蜜寺の広大な寺域内に、平家一門の邸館がひしめき、その数はなんと5千2百余に及んだそうじゃ。

平家の没落後、六波羅の地は源頼朝公に与えられる。そこで、わが祖・北条時政公が京都守護のお役目を与えられ、この地に庁舎を建てたらしい。そして、甥の北条時定殿が駐留し、都で公家や院との折衝にあたったと聞く。

その頃は、武家を小馬鹿にする院や、世間知らずの公家どもを相手に、さぞかし骨が折れる仕事であったじゃろう。じゃが、承久の乱で朝幕の力関係が逆転して正式に六波羅探題が設置されると様相は一変。北方に北条泰時公、南方に北条時房殿が就任し、以後、朝廷の監視役として力をもつようになるというわけじゃ。

六波羅探題は執権・連署に次ぐ重職ゆえ、北条一族でも将来有望な若手が選ばれるのが通例。いってみれば出世の登竜門じゃ。とはいえ、六波羅探題は幕府の京都支社のようなもんじゃから、些細なことはともかく、大事を決める際には本社である鎌倉にお伺いを立てねばならず、決裁権はけっして大きくない。加えて、わがままな朝廷、公家と幕府の間に立って、いろいろと気苦労も多い職責じゃったはずじゃ。

それゆえ、いろいろと問題も起こる。たとえば北条重時は朝廷との深く癒着しすぎて帰参を許されなかったし、北条時輔に至っては謀反の嫌疑で粛清されておる。うまく立ち回らないと身を滅ぼすことにもなりかねない、なかなかにたいへんな職責だったようじゃな。

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弘3年(1333年)、六波羅探題足利高氏に攻められて滅亡する。最後の六波羅探題北条時益、仲時の悲劇については、こちらを読んでいただくことにして…

takatokihojo.hatenablog.com

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かつて、六波羅探題跡を伝える石碑「此付近平氏六波羅第跡 六波羅探題府」は、近くの中学校の脇にあったはずなんじゃが、ひさしぶりにきてみるとなくなっておる。なんでも、中学校を建て替えた時に、石碑も六波羅蜜寺境内に移されたそうじゃ。しかし……こんなとこにあっても、だれも気づかないわな。