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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

後醍醐天皇の怨霊~玉骨はたとえ南山の苔に埋もるとも

さて、崇徳院、後鳥羽院につづいて怨霊になったであろう人物といえば、あの御方じゃな。そう、後醍醐天皇じゃよ。

後醍醐天皇

後醍醐天皇

後醍醐天皇の崩御

延元4年/暦応2年(1339)8月15日、後醍醐天皇は吉野で崩御した。左手に法華経を持ち右手には剣を持って、つぎのような言葉を残し、座したまま亡くなったといわれておる。

朝敵を悉く亡ぼして、四海を泰平ならしめんと思ふばかりなり。朕則ち早世の後は、第七の宮(後村上天皇)を天子の位に即け奉り、賢士忠臣、事を謀り、義貞・義助が忠功を賞して、子孫不義の行無くば、股肱の臣として天下を鎮むべし。之を思ふ故に、玉骨は縦令(たとい)南山の苔に埋もるとも、魂魄は常に北闕の天を望まんと思ふ。若し命を背き義を軽んぜば、君も継体の君にあらず、臣も忠烈の臣にあらじ。

とにかく「徹底抗戦せよ」と。「この命に背くようであれば、わが子孫とも臣とも認めない」と。朝敵討滅と京都奪回への凄まじい執念じゃ。ふつう、天皇陵は南側に面してつくられるものじゃが、後醍醐天皇陵はご自身の意思で北面、つまり京都に向かってつくられているそうだ。足利尊氏と直義の兄弟は、これを聞いてガクブルだったことじゃろう。

『太平記』に描かれる後醍醐天皇の怨霊

『太平記』には、後醍醐天皇の怨霊話がしばしば出てくる。たとえば、湊川で楠木正成を討ち取った大森盛長の妖刀を、後醍醐天皇の治世に戻すために、鬼女に化けた正成が奪いにくる話。正成を動かすのはもちろん後醍醐天皇の怨霊じゃ。

後醍醐天皇が吉野で崩御したときには、車輪のようなものが都に向かって毎晩のように光りながら飛んで行き、不穏な出来事を色々と起こしたともいう。そして都では疫病が流行り、ついに足利直義が病に倒れる。人々は、平重盛が早世して平家の運命が尽きたように、直義の死によって天下はまた乱れるだろうと噂した。幸い、光厳上皇が石清水八幡宮に御願書を遣わして直義は回復したが、尊氏もまた後醍醐天皇の怨霊を強く意識したじゃろう。

足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うために、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿に、光厳上皇の院宣を受けて天龍寺を開創する。そして開山には夢窓疎石を迎えて、後醍醐天皇の七回忌法要と落慶式を盛大に営んでいる。しかし、南北朝の動乱はそれからもしばらく続き、尊氏は弟の直義、息子の直冬を殺害するなど、その余生はけっして穏やかではなかった。

足利義満の時代に南北朝は合一するものの、両統迭立の約束を反故にしたことから、後南朝が激しく抵抗し、その後も応仁の乱がおこったりと、足利の治世の安寧は長くは続かなかった。これも後醍醐天皇の怨霊のせいなんじゃろうか。わしにはよくわからん。

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国家転覆を計画する怨霊たち

「太平記」には、出羽国羽黒の山伏・雲景が天龍寺を訪れようとして、愛宕山の大天狗・太郎坊に誘われ、崇徳院を中心に後鳥羽院、淳仁天皇、後醍醐天皇ら、そうそうたるメンツの怨霊が国家転覆を計画している現場に居合わせる場面がある。

太郎坊は密議をこらす怨霊たちをよそに、雲景にこう話している。

それ仁とは、恵を四海に施し、深く民を憐れむを仁と言ふ。それ政道と言ふは、国を治め人を憐れみ、善悪・親疎を分かたず撫育するを申すなり。しかるに近日の儀いささかも善政を聞かず……

もはや末世になり「仁政」は廃れてしまっていると、太郎坊はいう。そして、前世での行いが多少よかったからといって、卑賤のものが天下を取ったところで、それはかりそめのことにすぎないというのじゃ。

されば、近年武家の世を執る事、頼朝卿より以来、高時に到るまですでに十一代、蛮夷の賤しき身を以て世の主たる事、かならず本儀にはあらねども、世澆季に及ぶ験に力無し。時と事とただ一世の道理にあらず。

頼朝公から高時まで11代、武家が天下をとったことで、世の中が力で争う時代になった。これは本来のあるべき政道の姿ではないけれど、道徳が廃れた末世であれば仕方がない。そもそも、こんな世になったのは誰のせいというわけではなく、その時代に生きる人々が自ら招いたことだというのじゃ。

先朝(後醍醐天皇)高時を追伐せらる。これかならずしも後醍醐院の聖徳の到りにあらず、自滅の時到るなり…

そして、鎌倉幕府が滅んだのは、べつに後醍醐天皇の聖徳のおかげではなく、単なる高時の自滅だと。このあたりは、言い返せぬわ。

先朝(後醍醐天皇)、随分賢王の行ひをせんとしたまひしかども、真実、仁徳撫育の叡慮は総じて無し。絶えたるを継ぎ廃れたるを興し、神明・仏陀を御帰依有るやうに見えしかども、憍慢のみ有つて実儀おはしまさず。

後醍醐天皇も賢明な君主たろうと努力はされたが、徳も情けも欠けていて、驕る気持ちばかりが強くて実が伴わなかった。そのため、運の傾いた高時を滅ぼすことはできても、高時よりも劣る足利に天下を奪われてしまった、というのじゃ。

運の傾く高時、消え方の燈の前を扇と成らせたまひて亡ぼしたまひぬ。その理にむく いて、累代繁栄四海に満ぜし先代をば亡ぼしたまひしかども、まことに堯・舜の功、聖明の徳おはせねば、高時に劣る足利に世をば奪はれさせたまひぬ。

足利はわしより劣るのかwww  

このあたりは異論がある者もいるかもしれんが、でも、この天狗は世の中をよくみておる。

いずれにせよ、「太平記」の時代は怨霊たちが跋扈して世が乱れた時代で、勝者による敗者の鎮魂は、中世社会では重要な政事だったことは確かじゃ。

もっとも足利への恨みをいうのであれば、わしも怨霊になって「太平記」に出てきてもおかしくないと思うんじゃが、なぜか出てこない。わしは暗愚で自滅した設定だから、仕方がないのかもしれん。それに尊氏は鎌倉の執権屋敷の跡に宝戒寺を建立して、北条一族の菩提を弔っておる。

もっとも、わしの息子の北条時行は、後醍醐天皇の恩赦によって南朝の臣となり、足利と戦っておるけどな。