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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

赤いマフラーが印象的な北条時輔と二月騒動の真相

鎌倉・室町

気まぐれにその時々に思いついた歴史ネタを書く当ブログじゃが、今日は北条時輔殿と二月騒動についてじゃよ。二月騒動と聞いても、教科書にはのってないし、ほとんどの人がピンとこないじゃろう。じゃが、鎌倉北条氏を語る上では、石橋山合戦、承久の乱と同様、スルーしてはいけない大事件なんじゃよ。

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北条時輔北条時宗

北条時輔殿といえば大河ドラマ北条時宗」で渡部篤郎さんが赤いマフラーをしてさっそうと登場したのが印象的じゃったな。そのおかげか、今では時輔公はワシや北条仲時とともに、北条フリークの間ではすっかり人気者じゃ。

時輔殿については以前にも書いたが、時宗公の兄上とはいえ、庶長子であったために家督を継ぐ序列としては、次男の時宗公、三男の宗政殿につぐ三番目。しかも時宗公が生まれたときに、お母さん同士がもめて、屋敷を追い出されるなど、なかなかに気の毒ではあった。じゃが、疎まれていたといわけではなく、烏帽子親は北条にとって大切な(注:この当時はね)御家人の足利利氏だし、奥さんは下野の大豪族の小山氏の出だから、時頼公は時輔殿にもきちんとした処遇を与えておるのじゃ。

後に六波羅探題南方になったのは、時宗公に体良く追っ払われたと指摘する人もおる。じゃが、北条にとって六波羅探題は執権や連署につぐ重職。時輔殿を鎌倉に置いておくと反得宗勢力が担ぎ出すというリスクはあるが、それをいうなら京都に派遣するのもこれまた違った意味でリスクがある。少なくともボンクラを探題にするわけはないし、やはり時宗公は、時輔殿に期待するところがあったと考えるほうが、人として素直ではないかな。

 

二月騒動はだれが主導したのか

じゃが、時輔殿は残念ながら二月騒動で殺されてしまう。享年25。

二月騒動とは、文永9年(1272年)2月、時宗公の命により、謀反を企てたとして鎌倉で名越時章・教時兄弟が、京で時輔殿が討たれた事件じゃ。「保暦間記」では、時輔殿が「年来謀反の志」を抱いており、それに名越流北条氏が加担したということになっている。じゃが、時輔殿と名越が謀反を企てたという証拠はない。というより、奇怪なことに、名越時章・教時の謀反は、すぐに冤罪であったということがわかり、討手をつとめた御内人は斬首となり、名越時章の子・名越公時は家督を継いでお咎めなしとなっているんじゃ。

うーん、臭い臭い! 陰謀臭いぞ!!

二月騒動は世上、時宗公が蒙古襲来を前に、時輔殿を殺し、名越流をおさえつけることで反乱分子の芽を摘みとり、得宗専制政治を強化するために起こした事件といわれておる。事実、これにより時宗公の地位は磐石となり、名越流はすっかりおとなしくなった。しかも、この事件の跡、名越時章がもっていた九州の筑後、肥後、大隅守護職安達泰盛と大友頼泰に移り、以後、蒙古襲来に備えた西国での軍事動員がスムーズにすすんでおる。なにかと得宗家に反抗的な名越時章なんかが生きておったら、こうはいかんかったじゃろう。

では、このシナリオはいったい誰が書いたのか。北条政村安達泰盛金沢実時の宿老達の意向はよくわからないが、時宗公の果断によるものとされておる。事実、討手の兵は御内人、つまり時宗公の家臣、親衛隊じゃからな。じゃがしかし…いくら名執権と呼ばれた時宗公でも当時はまだ二十歳そこそこ。独断でこれだけの大事をすすめるなんてありえるじゃろうか。

こう考えていくと、やはり御内人平頼綱が用意したシナリオのように思えてくる。得宗家の障害になる存在はいかなる手段をもってしても排除する。御内人とは、そういうもんじゃ。もちろん、時宗公はこれを許可した。そして、蒙古襲来を前に後顧の憂をなくすには最良の結果となった。宿老達も胸中は複雑ながら、さいごは納得したということじゃろう。じゃが、ここでの対立は、時宗公死後、御家人の安達泰盛得宗御内人平頼綱の争い、つまり霜月騒動の火種になっていくわけじゃな。

 

かくして北条時輔は赤マフラーに

ところで、時輔殿には事件後、生存説が囁かれていたようじゃ。『興福寺略年代記』には「誅されるも、逐電」したとあり、『保暦間記』には、「時輔遁げて吉野の奥へ立入て行方不知」とある。また、文永の役のさなかには、、時輔殿が時宗公の叔父の時定とともに、鎌倉へ攻め込もうとしているという風聞さえ流れたという。また、時輔殿の長男は行方がわからないものの、次男は三浦介入道を頼って現れたところを捕まり、斬首されたとも聞く(『鎌倉年代記裏書』『保暦間記』)。

このあたりの事実関係はわからんが、大河ドラマの時輔公は難を逃れた後、赤マフラーをして蒙古に渡り、弟の時宗公のために一働きする設定になっていたのは、こうした記録をもとに創作されたんじゃろう。いずれにせよ、この生存説は、実の弟に冤罪を着せられ殺された時輔殿に人々が哀れを感じて伝承していったんじゃろうな。頼朝公に殺された義経公にようにね。

閑話休題和泉元彌さんの時宗公は、力強さに欠けるというか、キャラ的に渡部時輔に完敗じゃったな、明らかに。

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