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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

赤いマフラーが印象的な北条時輔と二月騒動の真相

気まぐれにその時々に思いついた歴史ネタを書く当ブログじゃが、今日は北条時輔殿と二月騒動についてじゃよ。二月騒動と聞いても、教科書にはのってないし、ほとんどの人がピンとこないじゃろう。じゃが、鎌倉北条氏を語る上では、石橋山合戦、承久の乱と同様、スルーしてはいけない大事件なんじゃよ。

渡部篤郎、北条時輔

渡部篤郎が演じた北条時輔(NHK大河ドラマ「北条時宗」)

北条時輔と北条時宗

北条時輔といえば大河ドラマ「北条時宗」で渡部篤郎さんが赤いマフラーをしてさっそうと登場したのが印象的じゃったな。そのおかげか、今では時輔はや北条仲時とともに、北条フリークの間ではすっかり人気者じゃ。

北条時輔は宝治2年(1248)、時頼公の庶長子として鎌倉で生まれた。幼名は宝寿で母は側室の讃岐局。時頼公が第5代執権となり、宝治合戦で勝利した翌年のことじゃ。

時輔ははじめ、烏帽子親の足利利氏の偏諱を受けて「三郎時利」を名乗った。太郎はもちろん時宗公なんじゃが、二郎を飛ばして「三郎」とされたのは、嫡男と庶長子の序列をはっきりさせたいという時頼公の意思を感じる。しかも、後に「利」を「輔(ける)」に改めさせられ「時輔」となったのは気の毒な感じがしないでもない。時宗公が生まれたあと、母親同士がもめて屋敷を追い出されてしまうなど、不遇な面もあった。

じゃが、疎まれていたといわけではなく、烏帽子親は北条にとって大切な(注:この当時は)御家人の足利だし、正室も下野の大豪族の小山氏の出だから、時頼公は時輔にもきちんとした処遇を与えてはおるのじゃ。

後に時輔が六波羅探題南方になったのは、時宗公に体良く追っ払われたと指摘する人もおる。じゃが、北条にとって六波羅探題は執権や連署につぐ重職。時輔を鎌倉に置いておくと反得宗勢力が担ぎ出すというリスクはあるが、それをいうなら京都に派遣するのもこれまた違った意味でリスクがある。

少なくともボンクラを六波羅探題にするわけはない。時輔は18歳で従五位下式部丞に叙任されておるし、得宗家庶子としてそれなりに妥当な扱いといえよう。やはり時宗公は時輔に期待するところがあったと考えるほうが、人として素直ではないかな。

二月騒動はだれが主導したのか

じゃが、時輔は残念ながら「二月騒動」で殺されてしまう。享年25。二月騒動とは、文永9年(1272)2月、時宗公の命により、謀反を企てたとして鎌倉で名越時章・教時兄弟が、京で時輔殿が討たれた事件じゃ。

「保暦間記」では、時輔が「年来謀反の志」を抱いており、それに名越流北条氏が加担したということになっている。じゃが、時輔と名越が謀反を企てたという証拠はない。というより、奇怪なことに、名越時章・教時の謀反は、すぐに冤罪であったということがわかり、討手をつとめた御内人は斬首となり、名越時章の子・名越公時は家督を継いでお咎めなしとなっているんじゃ。

うーん、臭い臭い! 陰謀臭いぞ!!

二月騒動は世上、時宗公が蒙古襲来を前に、時輔を殺し、名越流をおさえつけることで反乱分子の芽を摘みとり、得宗専制政治を強化するために起こした事件といわれておる。事実、これにより時宗公の地位は磐石となり、名越流はすっかりおとなしくなった。

しかも、この事件の跡、名越時章がもっていた九州の筑後、肥後、大隅の守護職は安達泰盛と大友頼泰に移り、以後、蒙古襲来に備えた西国での軍事動員がスムーズにすすんでおる。なにかと得宗家に反抗的な名越時章なんかが生きておったら、こうはいかんかったじゃろう。

では、このシナリオはいったい誰が書いたのか。北条政村、安達泰盛、金沢実時の宿老達の意向はよくわからないが、時宗公の果断によるものとされておる。事実、討手の兵は御内人、つまり時宗公の親衛隊じゃ。

じゃがしかし…いくら名執権と呼ばれた時宗公でも当時はまだ20歳そこそこ。独断でこれだけの大事をすすめるなんてありえるじゃろうか。

こう考えていくと、やはり御内人の平頼綱が用意したシナリオのように思えてくる。得宗家の障害になる存在はいかなる手段をもってしても排除する。御内人とは、そういうもんじゃ。

もちろん、時宗公はこれを許可した。そして、蒙古襲来を前に後顧の憂をなくすには最良の結果となった。宿老達も胸中は複雑ながら、さいごは納得したということじゃろう。

じゃが、ここでの対立は、時宗公死後、御家人の安達泰盛と得宗御内人の平頼綱の争い、つまり霜月騒動の火種になっていく。

かくして北条時輔は赤マフラーに

大河ドラマ「北条時宗」

大河ドラマ「北条時宗」

ところで、時輔には事件後、生存説が囁かれていたようじゃ。『興福寺略年代記』には「誅されるも、逐電」したとあり、『保暦間記』には、「時輔遁げて吉野の奥へ立入て行方不知」とある。

文永の役のさなかには、時輔が時宗公の叔父の北条(阿蘇)時定とともに、鎌倉へ攻め込もうとしているという風聞が流れたという。ちなみに時輔の長男は行方がわからないものの、次男は三浦介入道を頼って現れたところを捕まり、斬首されたようじゃ(『鎌倉年代記裏書』『保暦間記』)。

このあたりの事実関係はわからんが、大河ドラマの時輔は難を逃れた後、赤マフラーをして蒙古に渡り、弟の時宗公のために一働きする設定になっていたのは、こうした記録をもとに創作されたんじゃろう。

いずれにせよ、この生存説は、実の弟に冤罪を着せられ殺された時輔殿に人々が哀れを感じて伝承していったんじゃろう。頼朝公に殺された九郎殿のようにね。

閑話休題、和泉元彌さんの時宗公は、力強さに欠けるというか、キャラ的に渡部時輔に完敗じゃったな、明らかに。