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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条時宗と蒙古襲来〜執権殿、煩い悩むなかれ

先日、北条時輔殿と二月騒動のことを書いているうちに、やはり北条時宗公のことを書かねばならぬと思うてのう。そう蒙古襲来の時のことじゃよ。

和泉元彌、北条時宗

和泉元彌が演じた北条時宗(NHK大河ドラマ)

上から目線で、じつに不快なフビライの国書

時宗公といえば、元寇のときに日本を守ったリーダーとして、世間の一般的な評価は高い。小説や評伝も多く、なにかと権謀術数、陰湿なイメージをもたれがちな鎌倉北条氏の中では、珍しく好感度の高い人物といえるじゃろう。江戸時代の水戸学、幕末には尊王攘夷の志士たち、さらには太平洋戦争時の皇国史観では、夷狄を打ち払った名執権として崇め奉られておる。

じゃが、戦後になると、元の使者を問答無用でバッサリ斬首にした国際儀礼もへったくれもない外交音痴という指摘も出てきた。また、その武断的な態度は後世の日本軍国主義の萌芽だなどというとんでもない見方をする馬鹿者すらいる。北条時宗公を首班とする鎌倉幕府が元との開戦を決意したのは、表向きは友好と通商を求めていた元が、日本を侮り、武力による脅しをかけていたことに反発したからとされている。

フビライ

フビライ

ちなみに、Wikipediaにフビライがよこしてきた国書の訳文があったので掲載しておく。

天の慈しみを受ける 大蒙古国皇帝は書を日本国王に奉ず。朕(フビライ)が思うに、いにしえより小国の君主は国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。まして我が 祖宗(チンギス・ハーン)は明らかな天命を受け、区夏を悉く領有し、遠方の異国にして、我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。朕が即位した当初、高麗の罪無き民が鋒鏑(戦争)に疲れたので  命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。義は君臣なりというが、その歓びは父子のようである。この事は(日本国の)王の君臣も知っていることだろう。高麗は朕の東藩である。日本は高麗にごく近い。また開国以来、時には中国と通交している。だが朕の代に至って、いまだ一度も誼みを通じようという使者がない。思うに(日本の)王国はこの事をいまだよく知らないのではないか。ゆえに特使を遣わして国書を持参させ、朕の志を布告させる。願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び、もって互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海をもって家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。兵を用いることは誰が好もうか。王は、其の点を考慮されよ。

至元三年八月 日
(宗性筆『調伏異朝怨敵抄』蒙古國牒状、東大寺尊勝院文書)

 「用兵夫孰所好(兵を用いることは誰が好もうか)」「王其圖之不宣(王は其の点を考慮されよ)」という結びは、じつに上から目線で不快な内容で、時宗公もさぞや頭にきたことじゃろう。

北条時宗には勝算はどれほどあったのか

そもそも鎌倉幕府は武家政権じゃからな。いくら元が大国だからとはいえ、唯々諾々と屈することはありえない。加えて、時宗公は無学祖元ら宋からきた禅僧たちから元の野蛮な評判を耳にしていた。降りかかる火の粉は払わねばならぬ。振り下ろされた太刀は太刀で受け止めねばならぬ。じゃから、再三の元からの国書を黙殺した。外交使節を斬ったことは今の感覚からはほめられたものではないが、何度もしつこく臣従を求めてきたフビライも非難されてしかるべきじゃ。

文永の役にのあと、時宗公が元の使者を斬ったからフビライが怒って弘安の役が起こったという人もいるが、使者の斬首が伝わる前から、すでにフビライは日本遠征の準備をしていたんじゃから、やはり戦は避けられなかったんじゃよ。時宗公の決断は、今でいう個別的自衛権の行使にあたるわけじゃな。

弘安の役

文永の役、弘安の役の戦局、経過については割愛するが、ここで考えておきたいのは、では、時宗公はどれだけの勝算があったのかということじゃ。彼我の戦力も顧みずに行き当たりばったりということは、よもやあるまい。

日本は島国であり、蹂躙された朝鮮や南宋、欧州とはちがう。敵は海を渡ってやってくるのじゃから、日本を制圧するだけの兵站の確保は難しく、増援部隊を送ることすら容易ではない。近代戦争とはわけが違うんじゃよ。文永、弘安の役で、日本は主に九州の武士たちが戦ったが、もちろん鎌倉から援軍を送ることもできたし、兵の数では元を上回る。しかも地の利はわれにある。自衛権の行使という大義もあり、士気は日本のほうが高い。

元の集団戦法や強弓、てつはうなどにはたしかに苦戦したものの、それは最初だけ。日本は神風のおかげで勝てたとみんながおもっているようじゃが、それは間違いで、じっさいの戦況は日本が優勢だったんじゃよ。特に石築地(元寇防塁)は威力抜群で、日本軍は14万人の元の大兵力の上陸を阻み、その防衛体制はほぼ完璧じゃった。

こう考えていくと、負ける理由は見当たらないんじゃ。不安要素は内通者が出ることくらいじゃが、二月騒動により、そこはとりのぞいてある。かくして時宗公は十分な勝算をもって元と対峙した。おまけに時宗公は、攻撃は最大の防御とばかり、壮大な大陸遠征計画をすら立てていた。まあ、これはさすがに妄想が過ぎるし、お金がなくて実行されなかったのはよかったんじゃがな。

執権殿、煩い悩むなかれ

文永の役のあと、時宗公は禅の先生でもある無学祖元をたずね、「莫煩悩」という言葉を贈られる。「莫煩悩」……煩い悩むなかれ。熟慮に熟慮を重ねて決断したんじゃ。迷うな、進め、やりぬけ、恐れるな。「喝!」……このとき、時宗公の腹を決めたというわけじゃな。

かくして日本の指導者の禅の大悟は神風をもよびおこし、日本は元を撃退する。その後もフビライは3度目の日本遠征を計画、鎌倉幕府は西国の異国警固番を強化する、これにより、幕府の指導力は西国まで及ぶようになり、得宗専制は確立されていく。そして時宗公は巨費を投じて円覚寺を創建し、元寇での戦没者を追悼する。開山はもちろん無学祖元による。円覚寺には日本の兵はもちろん、蒙古、高麗の兵たちも分け隔てなく供養されている。

じゃが、この国難に対峙するストレスに命を擦り減らしたのじゃろうか、時宗公は34歳という若さでこの世を去る。今でいう過労死というやつじゃ。その跡を継いだのは、わが父・貞時公というわけじゃ。貞時については、また、あらためて。