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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

清水冠者・木曾義高のお墓詣り〜薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ

常楽寺の裏山に清水冠者義高殿のお墓があるとのことで、そちらにも行ってきたぞ。義高殿といえば、源頼朝公と政子さまの長女・大姫さまとの悲恋が有名じゃな。

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義高殿は、木曾義仲殿の嫡男で母は中原兼遠の娘。11歳のとき、頼朝公の長女・大姫さまの許嫁として鎌倉へ下るが、人質として差し出されたことは周知の事実。義高殿にもとうぜんその自覚はあったじゃろう。いっぽう、大姫さまはまだ6歳。そんなことはおかまいなしに、幼心に義高殿に恋い焦がれて暮らしていたという。まあ、恋人同士というより、仲の良い兄妹という感じだったんじゃろうな。

じゃが、頼朝公と義仲殿の和議は長くは続かず、ふたりに突然、いや、必然の悲劇が襲う。寿永3年(1184) 4月、義仲殿を滅ぼした頼朝公は将来への禍根を断つために、義高殿の殺害を決意する。自身が池禅尼の憐憫により命長らえ、その結果、いまは平家を滅ぼさんとしている。頼朝公としては当然の処置であったじゃろう。

とはいえ、幼い大姫さまにはそんなことはわからない。待女から義高殿の命が危ないということを聞いた大姫さまは、義高殿を女房姿に変装させ、音がしないようにひずめに綿を巻いた馬を用意し、鎌倉から脱出させる。しかも、義高殿がいつも双六をしていた場所で、側近の海野幸氏に身代わりとして双六をさせ、周囲に脱出を気づかれないようにするという念の入りよう。もちろん6歳の大姫さまがそこまでできるはずもなく、おそらく北条政子さんが密かに義高殿脱出に協力していたと考えてよいじゃろう。

しかし、夜になると事は露見し、激怒した頼朝公は義高殿を討ち取るべく軍兵を差し向ける。そして4月26日、義高殿は武蔵国入間河原でお地蔵さんの後ろに隠れていたところを堀親家の郎党・藤内光澄に見つかり、討たれてしまう。享年12。

12歳といえば、まだ小学校6年生くらいじゃないか! 恐怖と心細さに打ち震えながら鎌倉街道を逃げていく義高殿を思うと不憫でならぬ。いくら武家の定めとはいえ、ひとりの子を持つ親としては、なんともやりきれぬ思いでいたたまれなくなるのう……

「姫公周章し魂を鎖しめ給う」(吾妻鏡)……義高殿の死を知った大姫さまは嘆き悲しんで病床に伏してしまう。

堀藤次親家郎従藤内光澄帰参す。入間河原に於いて志水の冠者を誅するの由これを申す。この事密儀たりと雖も、姫公すでにこれを漏れ聞かしめ給い、愁歎の余り、奬水を断たしめ給う。理運と謂うべし。御台所また彼の御心中を察するに依って、御哀傷殊に太だし。然る間殿中の男女多く以て歎色を含むと。

大姫さまは水を飲むことすら拒んで父・頼朝公に抵抗したとある。これをみた政子さまは義高殿を討ったために大姫が病になってしまったと頼朝公をつよく詰り、なんと義高殿を討ち取った藤内光澄が晒し首にされてしまうのじゃ。うーん、これでは光澄があまりにかわいそうすぎじゃよ。ちなみに、義高に変装して双六をした海野幸氏は、命を懸けて義高を守ろうとしたとの評価から、その後、頼朝側近として仕えたという。藤内光澄にとっては理不尽きわまりないが、人の運不運というのは、どうにもいかんともしがたいものなのかもしれぬのう。

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常楽寺の裏、粟船山の小道をのぼっていくと、ほどなくして小さな祠に到着する。立て札には「姫宮の墓」とある。これは三浦泰村に嫁いでだ後、若くして亡くなった泰時公の娘の墓であるという。じゃが一説によると、大姫さまの墓ではないか、ともいわれている。義高殿の近くで眠る大姫様、というのはいかにもありそうなことじゃが、じっさいのところはよくわからん。じゃが、今日のところは大姫さまの祠ということにして、手をあわせてもバチはあたらんじゃろう。

義高殿亡き後、大姫さまは笑顔が消え、言葉もないうつうつとした日々を過ごす。17歳のとき、頼朝公の甥にあたる一条高能との縁談がもちあがるが、大姫さまは「義高さま以外のかたに嫁ぐくらいなら、深淵に身を投げるわ!」と言い放ったらしい。その後、頼朝公は大姫さまを後鳥羽天皇に入内させるべく工作するが、建久8年(1197)7月14日、大姫さまは20歳の若さで没してしまう。これもまた、大姫さまの無言の抵抗であったのか。ひょっとしたら、武家の棟梁にまで上り詰めた頼朝公にとって、最後までもっとも気がかりだったのは、愛娘の大姫さまのことであったのかもしれぬのう。

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さらに山道を行くと、ほどなくして「木曽塚」、つまり義高殿の墓に到着。石碑にはこうある。

木曽冠者義高之塚
義高ハ義仲ノ長子ナリ 義仲嘗テ頼朝ノ怨ヲ招キテ兵ヲ受ケ将ニ戦ニ及バントス 義高質トシテ鎌倉ニ至リ和漸クナル 爾来頼朝ノ養ウ所トナリ其女ヲ得テ妻トナス後義仲ノ粟津ニ誅セラルルニ及ビ遁レテ入間河原ニ至リ捕ヘラレテ斬ラル 塚ハ元此地ノ西南約二町木曾免トイフ田間ニ在リシヲ延宝年中此ニ移ストイフ 旭将軍ガ痛烈ニシテ豪快ナル短キ生涯ノ余韻ヲ伝ヘテ数奇ノ運命ニ弄バレシ 彼ノ薄命ノ公子ガ首級ハ此ノ地ニ於テ永キ眠ヲ結ベルナリ

入間河原で討たれた義高殿は、鎌倉での首実検の後、はじめ常楽寺近くに葬られたそうじゃ。そこは「木曽免」とよばれていたが、江戸時代に村人が塚を掘ったところ、人骨の入った甕が出てきたので、これは「義高殿に相違ない」ということで、現在の地に再び埋葬したとのことじゃ。

政略に翻弄された男女というのは歴史上たくさんいるが、ふたりの幼さが、よりいっそう涙を誘うのう……

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