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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

北条時氏、早すぎる死がいかにも残念な得宗4代目

所用で鎌倉は十二所に行ってきたのじゃが、このあたり、明王院の東側一帯には源実朝公が創建した大慈寺の大伽藍が建っておった。「吾妻鏡」によると、この大慈寺のそばの山麓に、北条時氏公が葬られたとある。といっても、多くの者が「北条時氏ってだれ?」と思うじゃろうな。

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ということで、説明しよう。

北条時氏公は3代執権・北条泰時公の嫡男で、4代執権・経時公、5代執権・時頼公のお父上。妻は、自ら障子を切り張りして質素倹約を時頼公に教えたという、あの有名な賢母の松下禅尼じゃ。

承久の乱では、時氏公は泰時公に従軍して武功をあげている。義時公が没し、泰時公が執権に就任すると、そのあとをうけて六波羅探題北方となり、京都の治安をよく守った。承久の乱の首謀者の一人として逃亡していた法印尊長を捕らえたとき、その尋問をしたのも時氏公だったと思われる。あの「義時公は伊賀の方に毒殺された!」という疑惑をうんだ取り調べのことじゃよ。

鎌倉幕府を揺るがしかねない大スキャンダルに発展したかもしれない事件の芽を、事を荒立てずにうまく丸く収めたのは、時氏公のお手柄であったのかもしれんな。

その後、時氏公は六波羅での勤めを終えて、鎌倉への帰路につく。得宗家嫡男として鎌倉で父の下で実務を学び、ゆくゆくは名執権として後世にその名を残すはずじゃった。じゃが、運の悪いことに時氏公は鎌倉に下向途中に発病。鎌倉では病気平癒のため加持祈祷がおこなわれたがその甲斐も無く、寛喜2年(1230年)6月18日、時氏公は鎌倉で没してしまう。

その日のことを「吾妻鏡」はこう記している。

戌の刻、修理の亮平朝臣時氏逝去す(年二十八)。去る四月京都より下向す。幾日月を経ず病脳す。内外の祈請を致され、数箇の医療を加うと雖も、皆以てその験を失う。去る嘉禄三年六月十八日次男卒す。四箇年を隔て、今日またこの事有り。すでに兄弟の御早世、愁傷の至り喩えに取るに物無し。寅の刻に及び、大慈寺傍らの山麓に葬ると。葬礼の事、陰陽の大允晴憲門生刑部房を挙げ申すと。

泰時公はさぞかし嘆き、悲しんだことじゃろう。奇しくもその3年前の6月18日、じつは時氏公の弟の時実が家人に殺されておったのじゃ。なんという偶然! 泰時公の相次ぐ不幸に「後鳥羽院の祟りか?」と噂する者もおったらしい。

もっとも、人の恨みをかうことを厭うようでは得宗家当主はつとまらぬ。たしかに代々の得宗は早死にじゃが、これはが祟りというより、執権職が激務なのが原因であって、たぶん現代で言うところの過労死なんじゃろう。

いずれにせよ泰時公の子で経時公、時頼公の父ということからみても、時氏公がひとかどの人物であったであろうことは推測に難くない。三男・時定も鎮西に下向し、蒙古襲来の折には鎮西奉行として尽力しておるしのう。

もし長命であれば名執権と世に謳われ、教科書にも載ったかもしれぬ。時氏公の早すぎる死が、いかにも残念じゃよ。

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