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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

北条経時公のお墓詣りに、材木座の光明寺に行ってきたよ

鎌倉・室町

今日はお天気はいまひとつじゃつたが温い一日じゃったな。ちょうど材木座に行くついでがあったので、わしは愛犬をつれて光明寺に行ってきた。光明寺鎌倉幕府・第4代執権の北条経時公を開基として、然阿良忠上人が開山した浄土宗の寺院じゃ。

鎌倉のメインの観光コースからははずれていることもあり、観光客は少ないが、立派な山門のある大きなお寺なんじゃよ。境内には湘南獣医師会による動物霊堂もあるしな。

本堂の裏手の天照山への山道を少し登ると、鎌倉の海が一望できてなかなかの好風景じゃ。展望台の近くには歴代住職の御廟所があって、そこには北条経時公の墓もあるんじゃよ。

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祖父・泰時の薫陶を受けた弥四郎経時

北条経時公は北条時氏公の長子で時頼公の兄、泰時公の嫡孫にあたる。母は賢母で知られる松下禅尼。7歳のときに父・時氏公が急逝。経時公は北条氏嫡流として、泰時公の期待を一身に集めて薫陶を受けることとなる。

11歳のとき、摂家将軍九条頼経公を烏帽子親として元服。「経」の字を拝領し、弥四郎経時を名乗る。その後、宇都宮泰綱の娘と婚約し、若狭守護、小侍所別当評定衆を歴任し、泰時公の後継としての道を歩み始めるのじゃ。

吾妻鏡」によると、寛文2年(1241)11月25日、泰時公が自邸でお食事会を開いととき、若い経時公と金沢実時公を呼びよせ、こう言い含めたという。

「文を好み事を為し、 武家の政道を扶くべし。且つは陸奥掃部の助(北条実時)に相談せらるべし。凡そ両人相互に水魚の思いを成さるべきの由」

自分亡き後の鎌倉をこのふたりに託そうという思いだったんじゃろうな。

じゃが、その4日後、若宮大路の遊女屋でたむろしていた三浦氏と小山氏が些細なことから喧嘩となり、「すわ合戦か!」という騒動が起こる。泰時公はその対応に苦慮するのじゃが、このとき、経時公は縁戚である三浦氏に家人を加勢させてしまうのじゃ。いっぽう、弟の時頼公は静観しており、泰時公は経時公に謹慎を命じ、時頼公を大いに褒めたという。

「各々将来御後見の器なり。諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。親衛(経時)の所為太だ軽骨なり。暫く前に来るべからず。武衛(時頼)の斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべし」

蒲柳の質でおとなしい印象の経時公も、思いの外、熱い漢だったのかもしれぬな。

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将軍・九条頼経を更迭し、政権基盤の安定を図る

仁治3年(1242)、泰時公の死により、経時公は執権となる。じゃが、19歳という若さということもあり、その政権基盤はかなり不安定であったようじゃ。事実、泰時公の死の前後、名越流北条氏や三浦氏には不穏な動きがあり、鎌倉で合戦が起こるという風聞が流れたという。まあ、このあと、時頼公の代になっても、宮騒動、二月騒動、宝治合戦と、鎌倉は権力闘争が続くしな。

さらに執権就任後は将軍・九条頼経公と対峙した。傀儡といわれてきた頼経も長く鎌倉にいればそれなりの影響力をもつようになる。名越朝時ら反執権政治勢力が接近し、関東申次ぎをつとめる父・九条道家も幕政に介入するようになってきた。三浦氏、千葉氏なども頼経公の側近くに集まり、派閥を形成している。

こうした動きに経時公は果断に対処し、頼経公に将軍職をわずか6歳の息子・頼嗣公に強引に譲らせてしまったのじゃ。しかも、16歳の異母妹・檜皮姫を頼嗣の室とし、将軍家との外戚関係をつくりあげ、執権としての権力基盤を固めてしまうのじゃ。

もっとも、頼経公は、その後も大御所として鎌倉に居座り、京都に強制送還されるのは時頼公の代になってからのことなんじゃがな。

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「深秘の御沙汰」により、執権職は経時から時頼へ

じゃが、執権という職務は激務なようで、経時公はしばしば体調を崩しては周囲をはらはらさせていたようじゃが、寛元4年(1246)3月には、いよいよ病状が悪化する。そこで経時公の屋敷に一門重臣たちが密かに集まり、「深秘の御沙汰」という秘密会合が行われ、時頼公の執権就任が決定する。

武州の御方に於いて深秘の御沙汰等有りと。その後執権を舎弟大夫将監時頼朝臣に譲り奉らる。これ存命その恃み無きの上、両息未だ幼稚の間、始終の牢籠を止めんが為、上の御計たるべきの由、真実御意より趣くと。左親衛即ち領状を申さると。

経時公には6歳の隆政、3歳の頼助というふたりの息子がいたが、後継とするにはあまりにも幼なすぎた。時頼公自身もまだ若く、幼子の後見として北条家を守っていくのは難しいと、経時公は憂慮されたのであろう。

ちなみにその後、隆政も頼助も仏門に入り、経時公の直系は絶え、得宗家は時頼公の血筋に受け継がれていったことから、この執権交代劇について、なにやら陰謀めいた説を唱える識者もおる。先ほどの三浦と小山の喧嘩騒動に際し、泰時公が下した評価も、時頼公をもちあげ、北条嫡流としての家督相続を正当化するためのでっちあげという意見もある。

まあ、「吾妻鏡」は時頼公の孫、わしの父の貞時公の時代に編纂された鎌倉幕府の正史じゃし、そういう見方はたぶん正しいじゃろう。そもそも権謀術数に長けた北条氏じゃからな。とはいえ、この件については、わしの立場では、なんともいいにくいぞw それに、そういういことを詮索しても北条氏のイメージや経時公の評価を損なうだけじゃから、その話は、これくらいにしておく。

ちなみに、NHK大河ドラマで、渡辺謙さん演じる時頼公は経時公に密かに呼び出され、自分の死因は何者かに盛られた毒のせいだと語ったという設定になっている。背後で暗躍するのはもちろん、前将軍頼経や名越流北条氏じゃ。やはり若くして亡くなった頼嗣将軍室・檜皮姫も一服盛られたという。そんな秘密を打ち明けられた時頼公は、一度は執権就任を固辞するが、兄に代わって得宗家を継ぎ、一族の棟梁となるべく決意を固めたという筋書きじゃ。そんな時頼公もまたドラマでは何者かに毒を盛られて、殺されてしまうわけじゃが、中世の武士社会の権力闘争では、こんなことがあっても不思議ではないかもしんな。

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寛元4年4月、北条経時公は出家して安楽と号し、閏4月1日に没。享年23歳。この若さがなんとも悲しいのう。名執権の誉れ高い泰時公、時頼公の狭間で、なんとも割りをくった印象は否めないが、北条の家を守った事実は消えないし、この人がいなければ、その後の北条得宗家の繁栄もなかったはずじゃ。

そんな経時公と檜皮姫、そして時頼公についてもっと知りたいというかたは、河村恵理さんの『鎌倉秘恋 北条恋ヶ谷』がおすすめ。

頼朝亡き後、後ろ盾をなくした北条家の執権・経時は16歳の妹・檜皮姫を7歳の将軍に嫁がせた。しかし、その妹が本当に愛していたのは…!? 堕ちたのは恋の谷。鎌倉を舞台に、政敵と戦う男たちと、彼らを愛した女たちの物語。

よろしければ、ご一読を。

鎌倉秘恋 北条恋ヶ谷 (プリンセス・コミックス)

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