鎌倉ではたらく太守のブログ

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源義経の最期と首のこと〜平泉・高館義経堂から藤沢・首洗井戸へ

今日4月30日は九郎判官殿こと源義経殿の命日じゃ。数年前の夏、わしも平泉を旅して、九郎殿最期の地といわれる衣川館跡を訪れ、手を合わせてきた。「夏草や兵どもの夢の跡」……高館義経堂とよばれるお堂がひっそりとあって、もののふのあわれを感じたものよ。

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九郎殿は日本史上屈指の悲劇のヒーローじゃから、いまさらわしかその事跡を紹介する必要はないじゃろう。ドラマや小説でもおなじみの悲劇的な人生は「判官贔屓」という言葉もあるくらい、日本人に愛されておる。

九郎殿の最期については「吾妻鏡」文治5年閏4月30日の記述にこうある。

今日陸奥の国に於いて、(藤原)泰衡源與州(義経)を襲う。これ且つは勅定に任せ、且つは二品(源頼朝)の仰せに依ってなり。豫州民部少輔(藤原)基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡の従兵数百騎、その所に馳せ至り合戦す。與州の家人等相防ぐと雖も、悉く以て敗績す。與州持仏堂に入り、先ず妻(二十二歳)子(女子四歳)を害し、次いで自殺すと。

妻子とともに自刃したんじゃな。なお、この女性は正室の郷御前(さとごぜん)。武蔵の豪族・河越重頼の娘で、有名な白拍子の静御前ではないのでねんのため。

さて、九郎殿の最期の地となった衣川館跡に建つ義経堂。当時撮影した写真がどっかいってしまったので、これはwikiから拝借したものじゃが、祠の中には、白顔の九郎殿が鎮座しておられた。「平家物語」にあるように、色白で小柄じゃったが、出っ歯かどうかはちょっとわからんかった。ちなみにこの小像は、天和年間に仙台藩藩主伊達綱村が建立したものらしい。

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衣川館へ押し寄せる敵を前に、主君を守るために無数の矢を射かけられても微動だにせず、立ったまま死んだといわれる武蔵坊弁慶。あの有名な弁慶仁王立ちの現場もここじゃ。「義経記」にはこうある。

武蔵は敵を打払ひて、長刀を逆様に杖に突きて、仁王立に立ちにけり。ひとへに力士のご とくなり。一口笑ひて立ちたれば、「あれ見給へあの法師、我らを討たんとて此方を守ら へ、痴笑ひしてあるは只事ならず。近く寄りて討たるな」とて近づく者もなし。然る者申 しけるは、「剛の者は立ちながら死する事あると云ふぞ。殿原あたりて見給へ」と申しけ れば、「われあたらん」とて言ふ者もなし。或武者馬にて邊を馳せければ、疾くより死したる者なれば、馬にあたりて倒れけり。

もちろん、弁慶のこの逸話は後世の創作である。そもそも武蔵坊弁慶なる人物は、九郎殿の主従の中にいたことは確かじゃが、逸話のほとんどがフィクション。とはいえ、このように後世に語り継がれるていること自体、九郎殿とその主従がいかに民衆に愛されていたかがわかるというものじゃな。

それに比べて頼朝公はどうじゃ。武家の棟梁として鎌倉幕府を開いたのに、じつに不人気じゃ。そりゃ、まあ、そうじゃろう。平家追討の大功労者である実の弟を殺してしまったんじゃからな。冷徹で猜疑心が強く「貴人に情なし」の典型か。

じゃが、武家では血縁とか身内というのは、もっとも危険な存在でもあるんじゃよ。たとえば、我が祖父の北条時宗公は兄・時輔殿を、足利尊氏は弟・直義を暗殺している。戦国時代でも武田信玄織田信長伊達政宗らも身内を殺し、家の安泰をはかっておる。頼朝公だけが嫌われるのはどうかと思うぞ。

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九郎殿が頼朝公に殺された直接の原因は、朝廷から許可なく官位を受けたことといわれておる。武家政権の確立をめざす頼朝公にとって、御家人が朝廷に勝手に近づくことは由々しき問題じゃった。まして、天晴れ平家を滅ぼした源氏の御曹司が朝廷に利用されでもしたら……頼朝公のアタマの中はそれでいっぱいだったじゃろう。それに、頼朝公はそもそも妾腹の九郎殿をどこまで弟として思っていたかも疑わしい。ひとつ屋根の下にいっしょに育つ現代の兄弟感覚とは明らかにちがうはずじゃ。

九郎殿はそうした自分が置かれた危うい立場がわかっていなかった。司馬遼太郎さんは、そんな九郎殿を軍事の天才ではあったが政治的には「痴呆レベル」と切り捨てている。いささかそれは言い過ぎじゃとも思うが、平家を壇ノ浦に滅ぼした功労者としての自負心が、九郎殿の目を曇らせてしまったのじゃろうか。あるいは源氏の御曹司としてのプライドも仇となったかもしれぬ。

なぜ、自分が疎まれなければならないのか。これはだれかの讒言によるもの。血を分けた兄弟なのだからわかりあえるはず。このあたりの心情は「腰越状」にも切々と綴られているが、その声は頼朝公には届かない。いっそ、ここで出家でもしておれば事態はかわったかもしれんが、まあ、それは家臣が許さんわな。だいたい寺で無防備に謹慎などしていたら、まちがいなく刺客が送られてくるじゃろう。鎌倉とはそういうところなんじゃよ。なお、腰越状についてはこちらもご参照くだされ。

それにしても、九郎殿にとって藤原秀衡の死は不運じゃったな。もし秀衡がもう少し長生きし、九郎殿を大将に奥州17万騎(←定かではないが)をもって対峙したら、いかな精強な鎌倉軍でも奥州征伐はかなり難渋したじゃろう。じゃが、秀衡が死んでしまうと嫡男の泰衡は頼朝公の圧力に屈し、九郎殿に討手を差し向けた。泰衡は九郎殿の御首をさしだせば、鎌倉との戦を避けられるとでも思ったんじゃろうか。まあ、その話はきょうはやめておこう。

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藤沢の白旗神社近くにある義経の首洗い井戸。文治5年6月13日、九郎殿の御首は、藤原泰衡の弟・高衡によって鎌倉に届けられた。

泰衡の使者新田の冠者高平、與州(義経)の首を腰越浦に持参し、事の由を言上す。仍って実検を加えんが為、和田の太郎義盛・梶原平三景時等を彼の所に遣わす。各々甲直垂を着し、甲冑の郎従二十騎を相具す。件の首は黒漆の櫃に納れ、清美の酒に浸す。高平僕従二人これを荷擔す。昔蘇公は、自らその獲を擔う。今高平は、人をして彼の首を荷なわしむ。観る者皆双涙を拭い両の袂を湿すと。

吾妻鏡」によると、検分したのは梶原景時と和田義盛。御首を目の前にして、その心中はどうだったのじゃろう。とくに景時は、九郎殿を讒言し、頼朝公との不仲の一因をつくった人物とされておる。頼朝公第一という立場では讒言もまたご奉公であったわけで割り切っていたとは思うが、このときばかりはさすがに涙したとある。景時もまた、もののふのあわれを理解する男じゃからな。

それなのに…検分のあと、九郎殿の御首は片瀬の浜に捨てられてしまったという。なんたる酷いこと。その後、御首は潮に乗って境川をのぼってきたので、憐れに思った里人が、この井戸で洗い清めたという伝承じゃが、さすがにこの扱いは酷すぎる。そんなことしてるから頼朝公は落馬してあっけなく死んじゃうし、源家の血統は絶えるし、梶原景時も和田義盛も滅ぼされてしまうんじゃよ。

中世鎌倉、じつに恐ろしい……って、北条のものがいってもダメじゃな。

とまあ、ぐだぐだ書いてきたが、お前は頼朝公と九郎殿のどっちが好きなんじゃ!という方もおるかもしれんな。じゃが、北条の家の者に対して、それは愚問というものじゃ。

ともかく、九郎殿の命日、その御霊に合掌。

なお、九郎殿と同様に頼朝公に粛清されてしまった蒲殿こと源範頼殿について、もしご興味があれば、こちらもご参照くだされ。