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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

若き日の源義朝公と逗子・沼濱御旧宅のこと

鎌倉・室町

ゴールデンウィークで混雑する鎌倉を避けて、野暮用をこなしに逗子に行ってきた。東逗子ともいえる沼間あたりは、むかしは鎌倉七郷のひとつで、沼浜郷と呼ばれていた。

沼浜という地名は文献的には正倉院の時代からみられるようで、かつてはすぐ近くまで海岸がせまっていて、あたり一帯は沼地であったらしい。この地に勢力を張っていたのが若き日の源義朝公。現在、日蓮宗法勝寺が建っているあたりには、義朝公の「沼濱の御旧宅」があったと伝えられている。

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源義朝の沼濱の旧居宅について

現在でもこの付近には階段状の平場が多く、堀の内や馬場橋といった名称からも、武士の館が多数あったことが想像できる。義朝公は鎌倉の亀ケ谷にも居館があり、この沼浜は別荘といったところじゃろうか。「吾妻鏡」には義朝公の沼浜別邸に関して、おもしろい逸話がある。

建仁2年(1202)2月29日 甲辰
故大僕卿(義朝)沼濱の御旧宅を鎌倉に壊し渡し栄西律師の亀谷寺に寄付せらる。(二階堂)行光これを奉行す。この事、当寺(寿福寺)建立の最初その沙汰有りと雖も、僕卿彼(義朝)の御記念として、幕下将軍(源頼朝)殊にその破壊を修復せらる。暫く顛倒の儀有るべからざるの由定めらるるの処、僕卿尼御台所(北条政子)の御夢中に入り示されて云く、吾常に沼濱亭に在り。而るに海辺漁を極む。これを壊し寺中に建立せしめ、六楽を得んと欲すと。御夢覚めるの後、善信(三善康信)をしてこれを記さしめ給い、栄西に遣わさると。大官令云く、六楽は六根楽かと。

寿福寺建立にあたって、義朝公は尼御台所の夢枕に現れた。曰く、義朝公の魂は沼浜旧宅にとどまっておったが、この地の漁師たちはその生業として殺生をしておるので、亀ケ谷の寺院に移しほしいという。かくして沼浜の旧宅の建物は寿福寺に移築されるわけじゃが、それにしても若き日に御乱行のかぎりをつくした義朝公。はたして六根清浄を得て、八正道を行くことができたのじゃろうかのうw

ちなみに、案内板によると、沼間の法勝寺は田越川の上流、長尾山の麓にあった善応寺を始まりとするらしい。その後、この地に移ってきて鎌倉時代には日蓮宗に改宗、寺名もあらためたという。もともとは長尾山の麓に住んでいた七頭の大蛇を行基菩薩が退治し、十一面観音像を彫ったことがを縁起とするそうじゃ。

源義朝による大庭御厨濫妨

ところで、源義朝公といえば、NHK大河ドラマ玉木宏さんが好演しておったのが記憶に新しい。「平清盛」は放送当時は低視聴率ということもあっていろいろと叩かれ、どこぞの首長には「画面が汚い」「観光誘致にマイナス」などとわけわからんことで難癖をつけられておった始末。じゃが、わしは大河史上でも傑出した面白さじゃったと思っておる。少なくとも「花燃ゆ」なんぞと比較して欲しくないし、「真田丸」にもまったくひけをとらないと思っておるんじゃが、みなはどうかのう?

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それはともかくとして、義朝公のことじゃ。大河ドラマでは若き玉木義朝公がマツケン清盛に「武者修行に行ってくるし!」といって颯爽と自分探しの旅に出るシーンが描かれていた。もちろん史実でも義朝公は東国へ下向しているが、じっさいは武者修行などではなく、没落していた父・源為義公が摂関家に接近するにあたり、院に近かった義朝公を体良く関東へ追い払ったというのが実際のところではないじゃろうか。

関東へ下向した義朝公は、上総氏を頼って、その庇護をうけている。それゆえ、義朝公は「上総御曹司」と呼ばれた時期があったという。このときの義朝公は18歳くらいで、いまなら高校生くらいの若造じゃ。じゃが、義朝公はたんなる若造ではなかった。この当時の関東は土地をめぐるいざこざが絶えなかった。すでに律令制による法の支配は崩れており、一所懸命、武士たちは実力で自分たちの土地を守っていた。そこで義朝公は、源氏ブランドを大いに活用して、武士たちの所領争いに積極的に介入していく。そんな義朝公が関東で名をあげたのが「大庭御厨濫妨」という事件じゃ。

天養元年(1144年)、義朝公は鎌倉のほど近く、大庭御厨内の鵠沼に武力をもって侵攻した。大庭御厨とは伊勢神宮に寄進された荘園で、鎌倉権五郎景政が開発した土地。現在でいえば藤沢市から寒川町一帯にあたる。ここを義朝公は武力をもって蹂躙、略奪を繰り返し、ついには実効支配してしまうのじゃ。ちなみに義朝公はこの時期、下総国相馬御厨でも紛争をおこしているが、この後、鎌倉・亀ヶ谷に館を構え、三浦氏や大庭氏といった豪族たちのいわば親分として、相模国一帯に勢力を伸ばしていったというわけじゃよ。

なお、この間、義朝公には三浦義明の娘との間に長男義平殿が、現在の秦野市あたりを所領としていた波多野義通の妹との間に次男朝長殿が生まれている(義平の母については京都の遊女という説もあり)。沼浜の旧宅で過ごしたこの時期、義朝公は気力体力精力ともに充実した、まさに青春真っ盛りだったといえるじゃろう。

やがて、義朝公の名は京都に知れ渡り、中央へと呼び戻される。そして保元・平治の乱へとつきすすんでいくことになるのじゃが、この話はまたいずれ。