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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

本間山城左衛門と大仏貞直…鎌倉に殉じた忠義の武士たち

今年も「5月22日」がやってくるにあたり、鎌倉のために戦い、命を落とした者どもへの鎮魂の記事でも書こうかと思うてな。今回は本間山城左衛門と大仏(北条)貞直のことじゃ。

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太平記」によると元弘3年(1333)5月19日、本間山城左衛門は極楽寺坂で新田義貞の軍と戦い、敵将の大館宗氏を討ち取った後、主君・大仏貞直の前で自害して果てている。

本間氏は大仏流北条氏の被官。承久の乱の後、大仏氏は佐渡守護となり、本間氏は守護代として佐渡を治めていた。しかし、新田義貞が鎌倉に攻め込んで来たとき、本間山城左衛門は大仏貞直からいわれなき嫌疑を受けて蟄居を命じられていた。

すでに北条の命運は風前の灯じゃし、なにもわざわざ加勢にいかなくとも戦が収まるまでじっとしておればよかったものを、この本間山城左衛門という男は律義者でな。身の潔白を晴らせぬまま主家が滅んでしまっては鎌倉武士の名折れと、命じられてもいないのに若党中間百余人を率いて、極楽坂へと出陣していくのじゃ。

敵の大将大館二郎宗氏が、三万余騎にて控へたる真ん中へ懸け入つて、勇み誇つたる大勢を八方へ追つ散らし、大将宗氏に組まんと透間もなくぞ懸かりける。三万余騎の兵ども須臾のほどに分かれ靡き、腰越までぞ引いたりける。余りに手繁く進んで懸かりしかば、大将宗氏は取つて返し思ふほど戦つて、本間が郎等と引つ組んで、差し違へてぞ伏し給ひける。

本間は死を覚悟しておるからな。その鬼神の如き働きにより大館宗氏はあえなく討ち死。山城左衛門はその首を手土産代りに刀の切っ先に貫いて、大仏貞直の陣に馳せ参じて最期の挨拶を述べたという。

「多年の奉公多日の御恩この一戦を以つて奉報候ふ。また御不審の身にて空しく罷り成り候はば、後世までの妄念とも成りぬべう候へば、今は御免を蒙つて、心安く冥途の御先仕り候はん」と申まうしも果てず、流るる泪を押さへつつ、腹掻き切つてぞ失せにける。

本間は命を賭して自らの忠義を証明した。たぶん、あんまり器用な男ではなかったんじゃろう。そして、これをみた大仏貞直は涙を流して自らの不明を詫びている。

「『三軍をば可奪帥』とはかれをぞ云ふべき。『以徳報怨』とはこれをぞ申まうすべき。恥づかしの本間が心中や」とて、落つる泪を袖にかけ、「いざや本間が心ざしを感ぜん」とて、自ら打ち出でられしかば、相従ふ兵も泪を流さぬはなかりけり。

そして運命の日、5月22日。稲村ガ崎を突破された鎌倉はいよいよ滅亡の時を迎えた。すでに市街地には火が放たれ、人々が逃げ惑っている。極楽寺坂を死守していた大仏貞直の陣にも敵兵が迫る。これをみた貞直の家来たちは、もはやこれまでと覚悟したのか、白州に武具を脱ぎ捨て、思い思いに腹を切る。じゃが、貞直はこれを不可とする。最期の一兵まで戦い抜くのが鎌倉武士じゃと。あるいは、わしがこの世への未練を断ち切り、冥土へ旅立ちための時間を稼ぐための吶喊だったのかもしれぬ。

「日本一の不覚の者どもの振る舞ひかな。千騎が一騎に成るまでも、敵を亡ぼし名を後代に残すこそ、勇士の本意とするところなれ。いでさらば最後の一合戦ひとかつせん快うして、兵の義を勧めん」とて、二百余騎の兵を相従へ、先づ大島・里見・額田・桃井、六千余騎にて控へたる真ん中へ破つて入り、思ふほど戦つて、敵数多討ち取つて、ばつと駆け出で見給へば、その勢わづかに六十余騎に成りにけり。貞直その兵を指し招いて、「今は末々の敵と懸け合つても無益なり」とて、脇屋義助雲霞の如くに控へたる真ん中へ駆け入り、一人も不残討ち死にして屍を戦場の土にぞ残しける。 

じつは鎌倉幕府が滅んだとき、北条方から裏切り者はほとんど出ていない。これは特筆すべきことじゃとわしは思う。本間山城左衛門もそうじゃが、たとえば赤橋守時足利高氏の義兄じゃし、安東聖秀は姪を新田義貞に嫁がせておるし、いくらでも生きながらえる算段はついたはずなんじゃ。それでも従容として鎌倉に殉じていく。「国破れて山河あり」という言葉は民のための言葉であって、為政者のための言葉ではない。鎌倉あっての北条であり、北条あっての鎌倉。それは矜持なのか、責任なのか、メンツなのか、うまく言えんのじゃが、今さら宮方に寝返るなんてことは、北条武士には思いも寄らぬことだったんじゃよ。

もっとも、「お前がちゃんとしてないからこうなったんじゃ!」と言われてしまいそうじゃがな……