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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

今日は5月22日なので、あらためて「なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのか?」を考えてみる

太平記

また、鎌倉のいちばん長い日、5月22日がやってきた。そう、今日は鎌倉幕府が滅亡した日じゃ。ということで、今日のお題は「なぜ、鎌倉幕府は滅亡したのか?」。

ちょうど鎌倉幕府が滅亡した理由がコンパクトにまとまってたんでシェアしたけど、まあ、単純に言えば御家人たちが窮乏していくのに対して、幕府が無策だったということじゃよ。

鎌倉の御家人たちは分割相続が基本。じゃから、相続していくうちに所領はどんどん狭くなり、実入りも小さくなる。それでも大きな戦でもあれば分捕った土地を功に応じて再分配もできるが、鎌倉時代も三浦氏が滅んだ後は北条に権力が集中し、かなり安定していたからな。蒙古襲来は完全な防衛戦争じゃから、褒美にあげる土地などない。こちらから元に攻め込もうなんていう計画もあったけど、さすがに実行されなかったし。しかも国難という緊急事態に、御家人ではない西国の武士、本所一円地の輩までもが幕府の支配下に置かれて動員され、物資も徴発されるなど、元寇では武士たちはみんなタダ働き。

おまけに鎌倉時代は貨幣経済がはじまっていて、自給自足と物々交換の時代とちがって、物価の変動により、どうしても武士たちの生活は不安定になる。そこへ金貸みたいな商売も発達してくるから、困った武士たちは土地を売ったりし、質入れしたりして、「一所懸命」の所領を失い、いわゆる「無足」の御家人が出てくる。こうなるともはや「御恩と奉公」もあったもんじゃない。そこで出されたのが、御家人の借金をチャラにして土地を回復できるという「永仁の徳政令」。じゃが、これは根本的な対策ではなく、むしろこれ以後、御家人たちには誰も金を貸してくれなくなり、ますます武士たちは貧乏になるという「皮肉な(1297)結果の徳政令」となってしまうんじゃな。

その一方で、源頼朝公の時代には鎌倉殿の前では御家人たちはみな同格じゃったのに、いつの間にやら北条家やその御内人、一部の特権階級の御家人たちが幕府の要職を占めて焼け太り。そんなわけで、わしが執権につく頃には、すでに武士たちの不満は爆発寸前となっていたんじゃ。そんなタイミングで登場したのが後醍醐天皇楠木正成ら「悪党」どもがここに加勢、鎮圧に手こずっているうちに「鎌倉って大したことなくね?」と誰もが思うようになり、足利高氏新田義貞佐々木導誉らが叛旗を翻したというわけじゃよ。

つまり、少なくとも「北条高時が暗愚だったから」という単純な理由ではなく、歴史の大きなうねりによる必然だったということじゃ。むろん、「国は一人を以て興り一人を以て滅ぶ」という言葉もあるから、わしには大きな責任があったわけで、実際、本気出そうとしたんじゃが……所詮、わしのキャラじゃなかったということで。

とはいえ、その後の建武の新政やら南北朝の動乱をみると、幕府を倒した連中も大した見識はなかったようじゃな。そう考えると、せめて時宗公、貞時公を支えた安達泰盛の改革「弘安徳政」がうまくいってれば、鎌倉の命脈も伸び、無用な戦は避けられたかもしれん。かえずがえすも残念じゃが、これをぶっつぶしたのも御内人平頼綱じゃし、得宗の者が言っても詮無きことじゃ。

そんなわけで、わしは怨霊として祟ることもなく、「徳宗大権現」という神様として、いまなお、この国の行く末を静かに見守っておると、こういうわけじゃ。愛犬と一緒にな。 

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