北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

宝治合戦、なぜ三浦は北条に滅ぼされたのか

今日は6月5日。今から769年前の宝治元年(1247年)6月5日、鎌倉で執権北条氏と有力御家人の三浦氏との間に武力衝突が起こった。宝治合戦じゃ。敗れた三浦泰村、光村らは法華堂にこもり一族与党500人が自決。これにより北条得宗家による専制政治が、いよいよはじまるのじゃ。

法華寺あと

 

三浦氏と北条氏 

三浦氏は前九年の役、後三年の役からの源氏の忠臣。源頼朝公が挙兵したときも、いの一番に合力した鎌倉の功労者じゃ。頼朝公の死後、有力御家人が粛清されていく中でも三浦は北条と蜜月関係をつくり、実力を蓄えてきた。同族の和田義盛が北条義時公と合戦に及んだときも、承久の乱のときも、三浦義村は北条義時公に味方しておる。

じゃが、それは表面上のことだったのかもしれぬ。三浦義村は権謀術数に長けた「友をも食らう」男じゃからのう。まあ、お互いに利あってのことで、そのあたりのことは、こちらの記事を参照いただくとして……

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宮騒動が勃発

事のはじまりは北条経時公が執権のときのこと。三浦の家督をついだのは泰村。泰村は烏帽子親の北条泰時公の娘を妻に迎えており、御家人の中でも最大の実力者だった。加えて息子の三浦光村は将軍の藤原頼経とべったり。なにもわからぬまま鎌倉に迎えられた三寅も、いい大人になっており、傀儡の名ばかり将軍に甘んじることに不満をもちはじめていた。

そこに、これまた執権になれなかったことに怨みをもつ名越流の北条光時が加担し、反執権の勢力はどんどん大きくなっていったのじゃ。

こうした事態に、経時公は藤原頼経を将軍の座から降ろし、強引に息子の頼嗣を擁立する。じゃが、その直後、なんと経時公はとつぜんの病に倒れてしまうのじゃ。若き経時公の死は呪詛、毒殺の疑いすらあるが、ともかくも執権の職は弟の時頼公がつぐことになる。なお、経時公については、こちらを。 

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さて、時頼公が執権になると、名越光時は「われは義時の孫なり。時頼は曾孫なり」と公然と言いだし、将軍頼経派を糾合し、公然と反旗を掲げはじめる。幸い、このときは時頼公が機先を制し、悪事が露見した光時はあえなく御用。火種となった前将軍の頼経を京都に強制送還し、世に言う宮騒動はひとまず時頼公の勝利に終わる。

このとき注目だったのが三浦の動きじゃ。光村は名越とともに決起を主張したが、泰村は北条にたてつくつもりはなかった。泰村はすぐさま北条に敵意のないことを示し、恭順している。時頼公もまた、叔父である泰村とは穏便に事を収めようとしておったようじゃ。おたがいに利ある関係を探り合う。三浦と北条はなんだかんだいってもこれまで協調してきたわけじゃからな。

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三浦光村と安達景盛

じゃが、そうした関係を壊した人物が双方に出てくる。ひとりはもちろん三浦光村。光村はかつて鶴岡八幡宮で公暁の門弟じゃったし、名越光時から偏諱を受けておるから、北条得宗家への反感は相当なもんだったんじゃろう。宮騒動が落着した後も、前将軍の頼経に「相構えて今一度鎌倉へ入れ奉らん」と約束を交わすなど、執権への対決姿勢を崩さなかった。

いっぽうの執権側にも「三浦討つべし」という強硬派がおった。時頼公の外戚の安達景盛じゃ。景盛の父・安達盛長は源頼朝公が流人時代から仕えていた有力御家人で、景盛も幕府の宿老として頼朝公亡きあとの鎌倉を支えてきた男じゃ。源実朝公が暗殺されると、その死を悼んで高野山に入ったが、承久の乱の折には尼御台の名演説を代読するなど、出家の身ながら要所要所で北条氏に寄り添い、幕政に関与してきた。そんな景盛が鎌倉に戻ってきたのが宝治元年(1247年)4月。三浦が厳然とした力をもっていることに対して景盛は、将来、北条得宗家、ひいては安達家に禍根を残すと考え、三浦討伐の機会を窺う。

かくして両雄並び立たず、北条と三浦は運命の時を迎えることになる。

(´-`).。oO(その時、歴史は動いた……)

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鎌倉不穏……

「吾妻鏡」によると、宝治元年(1247年)は年頭から鎌倉に不吉な事がつぎつぎと起こっておった。

1月29日 癸未 羽蟻群飛び、鎌倉中に充満すと。

1月30日 甲申 越後入道勝圓(北条時盛)の佐介亭の後山に光物飛行す。仍って祈祷を致すと。

3月11日 甲子 由比浜の潮変色す。赤くして血の如し。諸人群集しこれを見ると。

3月12日 乙丑 戌の刻大流星。艮方より坤に行く。音有り。長五丈、大きさ圓座の如し。比類無しと。

3月16日 己巳 戌の四点鎌倉中騒動す。然れどもその実無きに依って、暁更に及び静謐すと。

3月17日 庚午 黄蝶群飛ぶ。凡そ鎌倉中に充満す。これ兵革の兆なり。承平即ち常陸・下野、天喜また陸奥・出羽四箇国の間その怪有り。将門・貞任等闘戦に及びをはんぬ。而るに今この事出来す。猶もし東国兵乱有るべきかの由、古老の疑う所なり

4月25日 戊申 巳の一点暈在りと。

5月18日 庚午 今夕光物有り。西方より東天に亘る。その光暫く消えず。時に秋田城の介義景の甘縄の家に白旗一流出現す。人これを観ると。

5月29日 辛巳 去る十一日陸奥の国津軽の海辺に大魚流れ寄る。その形偏に死人の如し。先日由比の海水赤色の事、もしこの魚の死せるが故か。随って同比、奥州の海浦の波濤赤くして紅の如しと。

「さすがにこれは盛りすぎじゃ!」と、だれもがつっこみたくなるが、まあ、それほど鎌倉の空気は不穏だったんじゃろう。そんな中、4月11日、高野山から鎌倉へ戻って来た安達景盛は息子の義景と孫の泰盛に苛立ち、檄を飛ばす。

これ三浦一党当時武門に秀で、傍若無人なり。漸々澆季に及わば、吾等が子孫定めて対揚の儀に足らざるか。尤も思慮を廻らすべきの処、義景と云い泰盛と云い、緩怠の稟性、武備無きの條奇怪と。

景盛に叱咤され安達義景は、愛染明王像をつくって三浦討伐の決意を固めたという。5月21日には、鶴岡八幡宮に「若狭の前司泰村独歩の余り厳命に背くに依って、近日誅罰を加えらるべきの由その沙汰有り。能々謹慎有るべき」との高札が何者かによって掲げられたらしいが、もちろんこれは安達による挑発じゃろう。 

融和を図る北条時頼と三浦泰村

それでも時頼公は、この時期、北条と三浦の融和のために力を尽くしていた。この年、執権北条氏との架け橋として将軍藤原頼嗣に嫁いでいた妹の檜皮姫が病没しておるが、時頼公はその服喪のために、あえて三浦泰村邸に滞在していた。これは将軍派と目されていた三浦に、北条は敵意が無いことを示そうとしたものといわれる。将軍と執権で争うことは鎌倉幕府の根幹に関わる大問題じゃから、融和をはかるのは当然じゃろう。

しかし、安達の挑発が効いたのか、このとき三浦邸では光村が戦意をたくましゅうし、武具を取りそろえて合戦の準備をすすめていた。これを察知した時頼公は、やむなく自邸に戻り、あらためて泰村に平盛綱を遣いとして、和議の道を探らせている。

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光村とは異なり、大人の泰村には北条への叛意はない。泰村は繰り返し弁明したと「吾妻鏡」には記されている。

この間世上の物騒、偏に一身の愁いに似たり。その故は、兄弟共他門の宿老に超越し、すでに正下五位たるなり。その外一族多く官位を帯び、剰え守護職数箇国・庄園数万町、吾衆の所掌なり。栄運すでに窮まりをはぬ。今に於いては上天の加護頗る測り難きの間、讒訴の慎み無きに非ず

泰村に於いては更に野心を存ぜずと雖も、物騒に国々の郎従等を催せれ、来集有る事、定めて讒訴の基たるか。これに依って御不審有らば、早く追 い下すべし。もしまた他に誡めらるべき上の事有らば、衆力無くば御大事を支うべからず。進退宜しく貴命に随うべし

羨望や讒言は迷惑千万。すでに栄運を窮めた三浦になんの野心があろうか。世間が騒がしいゆえ、やむなく武備を固めていただけで、ご不審とあらば貴命に従い、兵を引き下げます…

「吾妻鏡」が伝えるこの泰村の言葉は、誠のものであったとわしも思う。こうして時頼公は三浦と和議を約し、喜んだ泰村は緊張から解放され、妻が出した湯漬けを食したあと、吐き戻したと伝えられておる。

宝治合戦の勃発

じゃが、「三浦討伐こそ鎌倉のため」という信念を曲げない安達景盛は、和議を約した平盛綱が帰参する前に、独断で三浦邸に兵を差し向けてしまう。これは景盛と時頼公が仕組んだ計略だという識者もおるが、わしはそうは思わぬ。そんな手が込んだことをして危険を冒すくらいなら、最初から三浦を攻めればよいんじゃからな。

じゃが、事ここに至っては、若き時頼公にはなすすべもなく、三浦討伐を是認するしかなかった。執権だの得宗だというと強大な権力をもっているように見えるが、案外、そんな程度のもんなんじゃよ。

城の九郎泰盛・大曽祢左衛門の尉長泰・武藤左衛門の尉景朝・橘薩摩の十郎公義以下一味の族軍士を引率し、甘縄の舘を馳せ出て、同門前小路を東に行き、若宮大路中下馬橋に到り北に行き、鶴岡宮寺赤橋を打ち渡り相構う。盛阿(平盛綱)帰参の以前、神護寺門外に出て時の声を作す。公義五石畳紋の旗を差し揚げ、筋替橋北の辺に進み、鳴鏑を飛ばす。この間陣を宮中に張る所の勇士悉くこれに相加わる。而るを泰村今更仰天しながら、家子・郎従等をして防戦せしむ

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不意を突かれた三浦勢はびっくり仰天。ともかくも筋替橋の三浦邸で北条軍を迎え撃つ。やがて娘婿の毛利季光や将軍派の面々が駆けつけてきて奮戦。三浦光村は永福寺に籠もり、北条軍を牽制する。しかし衆寡敵せず、北条軍によって邸に火を放たれると、三浦一族は「もはやこれまで」と頼朝公の廟所である法華堂に集結。矢尽き刀折れた泰村以下一族五百数十名は、頼朝公の御影の前で自害して果て、三浦はここに滅亡する。

三浦一族の最期

泰村らが法華堂に乱入したとき、逃げ遅れて屋根裏に隠れていた法師いた。尋問を受けた法師は、三浦一族の最期について証言している。光村は泰村をなじったという。

「九条道家公(将軍頼経の父)が、父上を執権にすると約束したあのとき、将軍を擁して名越と決起していれば、こんなことにはならなかった。父上の躊躇のせいで、愛子と別れ、一族が滅ぶことになってしまったではないか。わしは悔しい!」

憤懣やるかたない光村は、やおら刀で自分の顔を削りはじめた。死後、遺体が判別できないように、ということのようじゃ。こういうの、わしも経験したが、一族の滅びの場面では、こうした狂気が人を支配することがあるんじゃよ。光村の血は飛び散り、頼朝公の御影を汚した。これをみた泰村は恐れ多いこととやんわりと光村を制止し、やがて落涙しながら、己の生筋について、こう述懐する。

数代の功を思えば、縦え累葉たりと雖も罪条を宥めらるべし。何ぞ況や義明以来四代の家督たり。また北条殿の外戚として内外の事を補佐するの処、一往の讒に就いて多年の昵を忘れ、忽ち誅戮の恥を與えらる。恨みと悲しみと計会するものなり。後日定めて思い合わさるる事有らんか。但し故駿河の前司殿(三浦義村)、他門の間より多く死罪を申し行い、彼の子孫を亡ぼしをはんぬ。罪報の果たす所か。今すでに冥途に赴くの身、強ち北条殿を恨み奉るべきに非ず

怨みと悲しみを吐露しつつも、さいごには泰村に「こうなったのは父・義村が他家を滅ぼした因果」「北条殿に怨みはない」と言わせてしまうあたりは、歴史は勝者がつくるとはいえ、「吾妻鏡」はあまりに北条のご都合主義との誹りは受けるかもしれんな。

ただ、泰村クラスの鎌倉武士になると、こうした死生観、潔癖さは珍しくはないんじゃよ。事実、わしだって東勝寺での最期のときには、無念の思いはあったものの、鎌倉を裏切った足利、新田への怨みはいまさら言うまい、これまた因果応報と、潔く腹かっさばいて自害したではないか。鎌倉武士のそのあたりの心意気は、みなにも理解してほしい。

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なお、三浦一族の墓所は、頼朝法華堂東方の山腹にひっそりとあるぞ。

この後の三浦一族についてじゃが、庶流の佐原氏がこれを後継し、得宗被官(御内人)として北条に仕えている。そして鎌倉幕府滅亡の時にはいち早く新田足利に鞍替えして生き延び、戦国時代まで続いていく。じゃが、小田原に起った北条早雲(伊勢宗瑞)と戦うことになり、けっきょく再び滅ぼされてしまった。

二度も北条に滅ぼされる三浦というのは、いったいどういう因縁なんじゃろうな。

戦国の三浦についてはこちらも書いたので読んでもらえたら幸いじゃ。

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