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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

合戦の道をば、武士にこそまかせらるべきに……保元の乱のこと

京都の高松神明神社に行ったときの続き記事じゃよ。ここは醍醐天皇の皇子で臣籍降下した源高明の御殿「高松殿」があったということは前にふれたんで、今回は保元の乱についてじゃ。

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ちなみに、源高明と明子のついてはこちらをご覧いただくとして……

高松殿は後白河天皇の里内裏にもなったということで、保元の乱では天皇方の拠点として、信西入道や平清盛源義朝公らが参集した。いっぽう、悪左府藤原頼長源為義殿・為朝殿、平忠正崇徳上皇方が集ったのは白河北殿。後白河天皇崇徳上皇の争いに藤原摂関家平氏、源氏がそれぞれに別れて対立した経緯については、もう面倒臭いから割愛して、戦の経緯を少々。

保元物語」によると、このとき、白河北殿にいた源為朝殿はすぐさま夜襲をかけるよう藤原頼長に進言する。

「只今高松殿に押よせ、三方に火をかけ、一方にてさゝへ候はんに、火をのがれん者は矢をまぬかるべからず、矢をおそれむ者は、火をのがるべからず。主上の御方心にくゝも覚候はず。但兄にて候義朝などこそ懸いでんずらめ。それも真中さして射おとし候なん。まして清盛などがへろへろ矢、何程の事か候べき。鎧の袖にて払ひ、けちらしてすてなん。(後白河天皇行幸他所へならば、御ゆるされを蒙って、御供の者、少々射ふする程ならば、定而駕輿丁も御輿をすてて逃去候はんずらん。其時、為朝参向ひ、行幸を此御所へなし奉り、君(重仁親王崇徳上皇の第一皇子)を御位につけまいらせん事、掌を返すがごとくに候べし。主上を向へまいらせん事、為朝矢二三をはなたんずる計にて、未天の明ざらむ前に、勝負を決せむ条、何の疑か候べき。」

夜襲により平清盛源義朝殿を討ち取り、高松殿に火をかけ、後白河天皇が逃げてきたところを幽閉しようというわけじゃ。じゃが、頼長はこれを容れない。天皇上皇という王者の戦いに源平が参戦するのに、夜襲なんて卑怯な手段はふさわしくない。お前ら野蛮人どうしの戦といっしょにすんな、ということらしい。

「為朝が申様、以外の荒義なり。年のわかきが致す所歟。夜討などいふ事、汝等が同士軍、十騎廿騎の私事也。さすが主上上皇の御国あらそひに、源平数をつくして、両方に有って勝負を決せんに、むげに然るべからず。」

朝になれば興福寺の僧兵も駆けつける手はずだから、そのときに正々堂々と決戦すべし。頼長に夜襲を却下された為朝殿は、崇徳院の前を退くと、こう嘆息したという。

「合戦の道をば、武士にこそまかせらるべきに、道にもあらぬ御はからひ、いかゞあらむ。義朝は武略の道には奥義をきはめたる者なれば、定て今夜よせんとぞ仕候覧。明日までも延ばこそ、吉野法師も奈良大衆も入べけれ。只今押よせて、風上に火を懸た覧には、戦とも争利あらんや。敵勝にのる程ならば、誰か一人安穏なるべき。口おしき事かな。」 

はたして、為朝殿が予想した通り、高松殿では源義朝公が後白河天皇信西入道に夜襲を進言する。

「合戦の手だて様々に候へ共、即時に敵をしへたげ、たち所に利をうる事、夜討に過たる事候はず」

すると信西入道も後白河天皇も諸手を挙げて賛成する。

「此の儀尤然るべし。詩歌管絃は臣家の翫所也といへ共、それ猶くらし。いはんや武芸の道にをひてをや。一向汝がはからひたるべし。誠に先ずる時は人を制す、後するときは人に制せらるといへば、今夜の発向尤也。

「早く兇徒を追討せよ。されば昇殿は疑いないぞ」と、信西入道は義朝殿にハッパをかける。すると義朝殿は「合戦に出て、どうして余命がございましょうか。ただ今昇殿し申し上げて、冥土の思い出にしたい」と、無理矢理に昇殿してしまい、後白河天皇はこれをたいそう面白がられたという。

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かくして天皇方の軍勢は白河北殿に攻めかかる。ただでさえ、兵力的に劣勢な崇徳上皇方はこの時点ですでに詰んでいるわけじゃが、それでも源為朝殿は自慢の強弓で阿修羅のごとく奮戦。両軍は鴨川を挟んでの激闘になる。

一進一退の戦況の中、源義朝公は藤原家成の屋敷に火を放つ。火はほどなく白河北殿に燃え移り、崇徳上皇藤原頼長はあぶり出されるように逃げ落ち、上皇軍は総崩れ。かくして保元の乱後白河天皇方の大勝利に終わる。

逃げた頼長は合戦中に流れ矢に首を射られ重症。瀕死の状態のまま木津川を下り、南都に逃げ隠れていた父の忠実を頼るが対面を拒否され、けっきょく死亡。崇徳上皇仁和寺に逃げ込むがその後に出頭。讃岐に配流となる。天皇上皇の配流は藤原仲麻呂の乱のときの淳仁天皇以来400年ぶりで、その後も崇徳院は京都に戻ることなく現地で没している。その無念は日本史上最強の怨霊となって、これ以後、朝廷を恐怖させるが、その話はもう書いたので割愛。そして源為義殿、平忠正は斬首。為朝殿だけは武勇を讃えられたためか、おっかなくて首をとれなかったのか、命だけはとられず、強弓を引けぬよう肘の腱を切られて伊豆大島へと流された。

そもそも保元の乱上皇軍は弱小で、劣勢は明らかじゃった。それでも崇徳上皇平忠盛重仁親王の後見だったこともあり、平清盛が味方してくれることを期待していたようじゃ。じゃが清盛は池禅尼のすすめもあり、後白河天皇の陣営に参集する。そうなると、上皇方が勝つ可能性はほとんどなく、源為朝殿が献策した夜襲は形勢逆転のための唯一の手立てじゃった。にもかかわらず悪左府頼長ほどの人物でも、それがわからないというのは、いったいお公家さんはどういうアタマの構造をしているんじゃろうか。まあ、この後の平治の乱藤原信頼も、太平記の時代の坊門清忠も同じことやっていることからして、これはもう、お公家さんの「仕様です」と認識するしかないのかもしれんな。

もっとも、こうしたことは現代の会社組織でもままある。私心とかプライドとかこだわりとか、そういうのが邪魔をして、部下とか専門家の意見を素直に聞くことができず、判断を誤るんじゃな。特に才知に走る人は要注意ということじゃな。