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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

殺生関白・豊臣秀次のこと…秀吉に翻弄された悲運の人生

7月15日は、豊臣秀次の命日だったんじゃな。豊臣秀次というと「殺生関白」というありがたくない異名もあってか、世間では暗愚なイメージも強い。それだけに、わし、彼を他人とは思えないんじゃよ。「真田丸」では、元・うたのおにいさんの新納慎也さんがけなげな秀次を好演しておるが、おそらく実際の秀次もあんな感じだったんじゃないかと思いつつ、わしは毎週みておるんじゃよ。

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殺生関白・豊臣秀次は後世の創作?

なぜ、豊臣秀次は評判が悪いのか。秀次の悪行乱行ぶりを伝える代表格は、やはり太田牛一の「太閤さま軍記のうち」じゃろう。「殺生関白」という悪名も、秀次切腹事件の経緯も、みな、ここを起点に後の世に伝わっていったんじゃよ。

さるほどに、院の御所崩御と申すに、鹿狩りを御沙汰候。法儀も政道も正しからざるあひだ、天下の政務を知ること、ほどあるべからずと、京わらんべ笑つて、落書にていわく、院の御所にたむけのための狩りなればこれをせつせう関白といふ と、かように書きつけ、立てをきさぶらひし。

摂政と殺生をかけて「せつせう関白」。なかなかうまいことをいうじゃないか。秀次は、正親町上皇が崩御し、まだ喪があけていないにもかかわらず鶴を食べたり、鹿狩りをするようでは関白としての思慮に欠けるというわけじゃ。

このほかにも、秀次は女人殺生禁止の比叡山に女房をつれて狩りをするは、鉄砲稽古、弓稽古と称して農民を殺すは、力試しで辻斬りをするは、北野天満宮で盲人の右腕を斬り落とすは、もう乱行三昧。しかも人が処刑されるのを好んで見にいく趣味もあり、妊婦の腹を捌いて胎児を検分したこともあるとか。

もし、これが事実なら、たしかに秀次は酷い。因果応報、身から出た錆、天罰がくだったといわれてもしかたないじゃろう。じゃが、この手の秀次の乱痴気話は同時代資料に照らしてみると、どうも信憑性に欠けるようじゃ。むろん秀次が品行方正、聖人君主だったなんてことはないじゃろうが、ほとんどが後世に誇張、創作されたとみるべきじゃろう。だいたい、この落首すら太田牛一の創作とすらいわれておる。「歴史は勝者がつくる」といわれるが、「殺生関白」なんてのはまさにこの典型。「太平記」で暗愚よばわりされたわしと同じじゃよ。

豊臣家のプリンスとして期待されたが……

では、じっさいの秀次はどんな男だったのか。秀次は秀吉の姉・ともの子で、秀吉にとっては甥にあたる。幼少時には浅井長政の家臣・宮部継潤を秀吉が調略するとき、人質として差し出されている。その後、織田信長が四国征伐に乗り出すとき、秀吉は三好一族との連携を強化するため、秀次を三好康長(笑岩)の養嗣子に差し出す。自らの出世のために、数少ない身内として秀次は秀吉にいいように使われているという印象じゃな。

やがて、本能寺の変がおこり、秀吉が賤ヶ岳の戦いに勝利すると、秀次も羽柴姓に復り、名を秀次とあらためる。小牧・長久手の戦いでは別働隊の総大将となるも岳父の池田恒興と義兄の森長可が討死にする大敗北を喫し、秀吉を大激怒させたが、このとき、秀次はまだ16歳じゃから、多くを期待するほうがおかしいじゃろう。

秀吉の期待に応える武勲はあげられなかったものの、秀次は内政面ではそれなりの手腕を発揮したようじゃ。所領である近江八幡の民政に力を注いでおり、領民からも慕われていたらしいぞ。あるとき領内で農民の間に水争いがおこり、庄屋が秀次に裁定を訴えたところ、秀次は田中吉政を派遣し、双方が納得する裁決を下して感謝されたという逸話もあるくらいじゃから、それなりの功績があったことは確かじゃろう。近江八幡市には銅像もあるし、八幡堀をつくった秀次は、いまも地元では愛されているようじゃしな。

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その後、秀吉は関白・豊臣秀吉となり、秀次もまた豊臣姓を下賜される。聚楽第に後陽成天皇が行幸したとき、秀次の序列は、大納言・徳川家康、内大臣・織田信雄、権大納言・豊臣秀長につぐ4番目じゃった。また、奥州で九戸政実の乱を鎮定する総大将をつとめるなど、秀次は数少ない豊臣家のプリンスとして将来を嘱望される存在であった。秀吉待望の嫡男・鶴松が夭折し、大和大納言秀長が没すると、秀次は秀吉の養子となり、関白の職を譲られる。だれもが秀吉後継は秀次と考えており、朝鮮出兵のために肥前名古屋に出張っている秀吉の代わりに聚楽第で政務を執っていたこの時期は、秀次にとって絶頂期であったのじゃが……淀殿が拾(秀頼)を産むと、その運命は暗転してしまう。

秀頼の誕生で運命は暗転

権力者にとって、血縁の存在というのは微妙なもので、もっとも頼りになる存在である反面、大きな脅威になることもある。事実、源頼朝公も弟の九郎殿、蒲殿を粛清しておるし、わしら北条や足利も、似たような内訌をくりかえしてきた。秀吉もまた、かわいいかわいい拾の行く末を案じたはずじゃ。秀次に関白を譲ったのは早計だったのではないか。鶴松が死んだ後、秀次は拾に関白職を譲ってくれるのか。秀次の子と拾の間で豊臣の跡目争いがおこるのではないか。時代はまだ戦国の生臭い気風が残っており、自分の死後、なにがおこるかわかっらない。それをだれかに利用されるのではないか。幼い拾の顔を見るたび、秀吉は焦りと不安に苛まれたことじゃろう。そして秀吉はとうとう錯乱する。

文禄4年(1595年)6月、とつでん秀次に「謀反」の嫌疑がもちあがる。秀次は誓紙を差し出し身の潔白を訴え、伏見城に釈明のために登城するが、秀吉は対面すら許さない。けっきょく秀次は高野山へ追放となり、同年7月15日に切腹、三条河原に晒し首。そのうえ妻妾公達39人はことごとく処刑。最上義光の娘で秀次の側室に出されていた駒姫なんてわずか9歳。秀次とは対面した事すらないのに磷の刑じゃからな。その後、遺体はまとめて穴に捨てられ、そこには秀次の首を収めた石棺を置いて首塚がつくられるのじゃが、秀吉は見せしめのためにその碑文に「秀次悪逆」と刻ませたという。それゆえ、京の人々はここを「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼ぶようになったらしい。さらに聚楽第や近江八幡山城も徹底的に破却され、秀次の痕跡を完全に消し去ろうとする秀吉の憎悪は、もはや狂気といってよいじゃろう。

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磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦

秀次の辞世の句じゃ。秀次は百姓の生まれじゃが、教養豊かな文化人であろうと努めていたという。「友千鳥」は「源氏物語」で光源氏が詠んだ歌にも出てくるが、この辞世からも、そんな秀次の人物像がうかんでくるではないか。秀次がどんな状況で辞世を詠んだかは知らぬが、切腹したことがある者ならば、「行きて(生きて)鳴く(無く)音の澄み(住み)にしの浦」という歌に、秀次の達観した心の平安、明鏡止水の心境を感じることができるじゃろう。

なお、最近では、「秀吉は秀次を追放したが、切腹は命じていない」という新説もある。じゃが、秀次は身の潔白を晴らすために、自ら腹を切ってしまう。秀次が腹を切った青巌寺は秀吉が生母の菩提寺として寄進した寺院。秀吉は自分へのあてつけのように神聖な場所で腹を切った秀次を許せず、その妻子に苛烈な処置をしたというんじゃ。秀次の辞世からみても、その可能性はありえるような気もするが、はたしてどうじゃろうか。

秀次切腹後、秀吉はあらためて諸大名に拾への忠誠を誓わせている。のちに秀吉は、五大老五奉行をおいて政権の盤石をはかるが、この事件で諸大名は豊臣政権がもう保たないことを確信したじゃろう。なんせ、豊臣家には拾を支える藩屏が全くいなくなってしまったわけじゃからな。だいたい秀頼がぽっくり逝ってしまったら、秀吉は豊臣家をどうするつもりだったんじゃろう。まさか養子に出した秀次の弟の金吾殿・小早川秀秋か? ともかくもこの3年後に秀吉は没する。そして5年後には関ケ原の戦いが起こり、この秀次切腹事件で連座させられそうになった大名の多くは東軍として徳川家康に加勢している。

ということで、秀次切腹は、豊臣家滅亡へのはじまりであり、因果応報、身から出た錆、天罰がくだったのは、秀吉のほうだったというお話でした。明後日の「真田丸」では、いよいよ秀次は切腹かな。ともかくも、秀次さんのご命日に、合掌。

追記

「真田丸」では、秀次が自ら出家し、腹を切った設定になっていた。関白出奔という豊臣家の恥を隠すために、秀吉は「秀次謀反の嫌疑により高野山へ追放」とし、あとで謀反の嫌疑は晴れたとして連れ戻すつもりだったというストーリーじゃ。じゃが、秀次は秀吉の思いも知らず、切腹してしまったと……これはこれでありかもしんれんな。きりちゃんも危機一髪でした。