鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

「直江状」を超訳してみた

さて、大河ドラマ真田丸」がいよいよ佳境になってきたな。来週はいよいよ関ヶ原。視聴率もうなぎのぼり(?)なのかはわしは知らんが、今回、じつに胸熱じゃったのがここ。直江兼続が手紙を書いている……ひょっとして、ひょっとしてそれは……

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直江状キター! Twitter界隈もかなりの盛り上がりをみせたようじゃな。徳富蘇峰をして「関ヶ原役中の一大快文字」といわしめた、徳川家康への強烈な皮肉に満ちた書状。写しはあるものの原本が存在してないことから、偽文書ではないが後世に創作、改竄されたとの説はあるが、じつに上杉家の気概を感じるお手紙である。ということで、この痛快なお手紙を超訳してみた。まあ、大体は会っていると思うが、変なとこあったら指摘してくりゃれ。

ということで「直江状」を超訳してみた

今月1日のあなたの書状が、昨日13日に届いたので拝見しました。いや~どうもどうも。

今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。

なんだか私どものせいでそちらはえらい騒ぎになっているようですね。でも、内府様(家康)が私どもに不信感を持っているのは、まあ、それはそれで仕方がないかとは思いますね。なんせ京都と伏見の間ですらいろいろデタラメな噂がたつくらいですし(ほら、秀次さんの謀反のときとか)。まして、私どもは遠国の会津だし、そもそも景勝は若輩者。それゆえ、いろいろいわれてしまうのでしょう。まあ、私どもはあまり問題にしていませんから、そちらもいちいち気にしないでほしいんですけどね……

一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。

さて、上洛せよとの件ですが、私どもは会津に国替えしたばかりですよ。この前上洛して、やっと帰ってきたばかりなのに、また呼び出しとかどうかと思いますけどね。それじゃあ、いったい国元の政治はいつとればいいんですか。当国は雪国ですから、冬はなんにもできないんですよ。こちらのことをよく知っている人に聞いてくださいよ。景勝に「逆臣有り」なんていう人は一人もいないと思いますけどね。

一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。

景勝に別心がないことは誓紙なんか書かなくても申し上げられます。そもそも、これまで、みなさん、何回も起請文を出しては反故にしてるじゃないですか。そんなこと繰り返しても無意味です(それ、内府様自身がいちばんわかっているはずでしょう?)。

一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。

太閤殿下以来、景勝が律儀者であると思っておられるなら、内府様も今さら疑うこともないと思うんですがね……まあ、殿下が死んでから、世の中の移り変わりが激しいことは、当方も存じています。

一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。

景勝に逆心など全くありません。それなのに讒言した者をちゃんと調べもせずに疑いをかけられてはたまりません。ガタガタいうやつをきちんと調べるのが当然なのに、それをしないで鵜呑みにするようでは、じつは内府様に裏表があると勘ぐりたくもたりますよ。

一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候内府様御表裏と存ずべく候事。

そういえば、加賀の前田も「逆臣有り」と讒言され、内府様の思う通りになったようですね……いやいや、家康様の御威光は素晴らしい(それにしても、うまくやりましたね。うちはその手にはのりませんがw)

一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事。

増田長盛大谷吉継が出世とのこと、まことにめでたいことです。なので、なにかあれば、あの二人に言いますよ。ただ、榊原康政はうちの担当窓口だったと思うんですが、あれはダメですね。やつがきちんと取次の役目を果たしていれば、こんなことにならなかったと思います。やつは正しい意見を内府様に上申すべきなのに、堀監物のデタラメを鵜呑みにして、一緒になって上杉を讒言するのはいかがなものかと。まあ、彼が忠義者か奸臣か、こちらとしてもよく見極めたいと思います。

一、増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこその筋目、内府様御為にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候(や)、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。

いずれにせよ、噂はわれわれが上洛しないからが生まれたことでしょうが、事実はこれまで申し上げたとおりです。

一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。

上杉は武器をやたらと集めていると文句を言われていますが、それもどうかと思いますぞ。上方の武士が茶道具のような人たらしの道具を好んでちゃらちゃらと集めるように、われわれ田舎武士は武具を集めるだけのこと。その国の風俗の違いくらいにお考えいただけばよいと思うんですが、どうでしょうか。だいたい景勝が茶道具なんか集めていたら変でしょう? そんなことを気にするなんて、天下を預かる内府様の器量が疑われますのぞ。ご忠告まで。

一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候事。

国境の道や橋を造って人々の往還の便をよくすることも国主として当たり前のことじゃないですか。それをもって逆心とかいうのもおかしいでしょう。越後会津の国境の道路整備は上杉が越後を領国にしていたときからすでにやっていることで、そのことは堀監物も知っているはずですよ。そもそも越後は上杉家の旧国ですから、もし攻め込むとしても堀監物ごときを踏みつぶすのに道など新たに造る必要なんかないです。景勝の領地はさまざまな国と接していますが、どこの国境でも同じように道を整備していますが、いちいち恐れをなして騒いでいるのは堀監物くらいのもんです。あいつは戦のことをまったく知らない無分別者。いくら他国への道をつくっても軍勢は一方にしか出せないというのに、とんでもないうつけ者ですね。もちろん江戸からの御使者が通る白河口やその奥も整備しています。御不審であれば徳川家としても検分しておくことをお勧めします。

一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は 何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にてこそ景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ候はば、合点参るべく候事。

じつは3月には謙信の追善供養がありますから、景勝はそれが終わる夏に上洛するつもりでした。そのため、在国中に国政を整えようと励んでいたところに、増田長盛大谷吉継がやってきて内府様が怒っている、逆心がなければ上洛しろといってきました。でも、もっとしっかりと調べてもらえればわかると思うんですがね。逆心はないと当方は申し上げているのに、ろくに調べもせず、逆心がなければ上洛しろだなんて、赤子の物言いじゃないですか。そもそも、昨日まで逆心を持っていた者も、知らん顔で上洛すれば褒美がもらえるようなご時世は、景勝には生きにくいし、上杉家代々の弓矢の誇りまで失いかねません。ですから、讒言者を引き合わせて調べていただいたうえでなくては、景勝は上洛なんてできません。なお、上杉家中の藤田信吉が当家を出奔して江戸に移った後に上洛したということは当方も承知しています。やつが何を言っているかは察しがつきます。まあ、今回の一件、景勝が間違っているか、内府様に表裏があるか、世間ははたしてどう判断するでしょうか。

一、景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らる べく内存に候、武具以下国の覚、仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され 候処、増右・大刑少より御使者申分され候は、景勝逆心不穏便に候間、別心なきに於ては上洛尤もの由、内府様御内証の由、迚も内府様御等間なく候はば、讒人申分有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に、意趣逆心なしと申唱へ候間、別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子の会釈、是非に及ばず候、昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺、或は新知行など取り、不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上には不相応に候、心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、妄りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、右の趣景勝理か否か、尊慮過すべからず候、就中景勝家中藤田能登守と申す者、七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、世上御沙汰次第に候事。

いくら申し上げてもお聞き届けいただけないかもしれませんが、景勝に逆心など毛頭ありませんから! いまはとても上洛できるような空気でもないようですし、もう少し内府様が物事の分別ができるようになったら上洛しようと思っています。このまま上洛せず、太閤様の御遺言に背き、起請文も破り、幼い秀頼様を見離すようなことになってはいけませんのでね。なお、こちらから兵を起こして天下を盗みとっても、それでは悪人と呼ばれるだけ、末代までの恥辱ですから、上杉家はそういうことはいたしません、どうぞ、ご安心ください。ただし、不義の扱いをされるようでは、誓いも約束も必要もありませんが……

一、千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、内府様御分別次第上洛申さるべく候、たとえこのまま在国申され候とも、太閤様御置目に相背き、数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼様へ首尾なく仕られ(なば)、此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、御心易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、不義の 御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。

隣国で堀が景勝に逆心あり、とほざいているのは知ってます。会津が動くと言いまわって兵や兵糧を支度してるそうですが、無分別者の仕事です。放置しましょう。

一、爰許に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。

内府様に内々に物事を収めるように話をしようかとも思ったのですが、堀はあいかわらずデタラメですし、うちの藤田も出奔していますから、こんな状況では内府様も信じてくれないでしょう。そんなときに使者を出しても意味ないですから、まずは、きちんとお調べください。さすれば、真実がわかるでしょうし、われわれも従いたいと思います。

一、内府様へ使者を以てなりとも申宣ぶべく候へども、燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条、表裏第一の御沙汰あるべく候事、右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、全く疎意なく通じ、折ふし御取成し、我らに於て畏入るべきこと。

遠国なので、なにごとも推し量りながら申し上げていますが、どうか、ありのままにお受け止めて下さい。いまさら言うまでもありませんが、世間は白黒を知っています。どうか真実をお認めください。思うまま気ままに書きましたし、はしたないことも少なからず申し上げましたが、ご諒解ください。

一、何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外少なからず候へども、愚慮申述べ候、尊慮を得べきためその憚りを顧みず候由、侍者奏達、恐惶謹言。

追伸。噂によると内府様と中納言様(秀忠)が会津に御下向されると聞いております。そうであれば、いつでもお相手いたしますので、すべてはその時に……

内府様又は中納言様、御下向の由に候間、 万端、御下向次第に仕るべく候。

会津会津・上杉征伐の真相はいかに?

痛快極まりないこの「直江状」。さいごの追而書は、後世の創作といわれているが。じつに痛快なので記しておいた。「真田丸」では、徳川への風刺の効いた内容に上杉景勝が笑みをこぼした場面が印象的じゃったが、ここで上杉征伐について少々。

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上杉景勝に豊臣への逆心があったかといえば、それはたぶんないじゃろう。じゃが、秀吉亡きあと、天下は乱れるとの見通しはあったろうし、伊達、最上、徳川という潜在的な脅威に囲まれている以上、国境の守りを固めるのは当然といえば当然。それゆえ上杉は神指城を築城するなど軍事力の増強に乗り出し、浪人者を雇い入れたりもしている。あるいは越後の旧領回復という意図はあったかもしれぬ。

こうした上杉の動向は、当然、近隣の最上義光や堀秀治らによって家康に逐一報告される。直江状に出てくる藤田信吉は、上杉と徳川の関係修復につとめていたという説もある。そこで徳川家康上杉景勝に問罪使を派遣。これに対する返書が「直江状」というわけじゃな。

さて、これをきっかけに家康は会津征伐へ向かうわけじゃが、その隙に石田三成は上方で挙兵し、関ケ原の戦いが始まる。さて、ここで気になるのは上杉と石田三成の間に密約があったのか、ということじゃ。

小説やドラマなどでは、石田三成上杉景勝直江兼続と示し合わせて兵を挙げ、徳川家康はその動きをすでに知りながら、豊臣恩顧の諸将を引き連れて会津へ向かったとされる。上杉景勝常陸の佐竹義宣と密約を結び、徳川軍を一挙に挟撃する計画があったとも聞く。現に佐竹義宣は上杉征伐にあたり、人質を出すことを拒んでおるし、進軍も消極的で最後は水戸に引き上げてしまう。佐竹義宣もまた石田三成とは昵懇だったから、上杉、佐竹、石田の盟約は情況証拠はそろっているわけじゃ。もちろん、それを裏付ける直接的な資料は存在しないがな。

いっぽうの徳川家康はどうだったか。通説では、わざと大坂を空にして三成の挙兵を促したといわれているが、これも真偽のほどはわからない。ただ、家康ほどの人物が、なにも気づかずに無防備であったとはありえないじゃろう。このあたりは家康も概ね想定していたようにわしは思うが、三成があそこまで見事に西国を押さえたことには肝を冷やしたじゃろう。

かくして天下分け目の関ケ原の合戦が始まる。戦国の気風残るこの時期、太閤没後に野心を持ったのが徳川家康だけ、ということはありえないわけで、それぞれがそれぞれの思惑で決断し、行動していたわけじゃよ。戦国の男たちを「真田丸」がどう描くのか。来週のO.A.を期待して待つことにしよう。