鎌倉ではたらく太守のブログ

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日野資朝と阿新丸…佐渡の妙宣寺に行ってきた

さて、この夏に訪れた佐渡の話。じつは今回の佐渡行きの目的のひとつは、わしが斬首に処した日野資朝の墓前に手を合わせることじゃった。

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雑太城跡に建つ妙宣寺

妙宣寺は弘安元年(1278)、順徳天皇に従ってきた元北面の武士・遠藤為盛こと阿仏房の新保の地にあった居宅を寺院にしたことがはじまりとのこと。そのため妙宣寺というより阿仏房の名の方が地元では通りがよいらしい。阿仏房が妻の千日尼とともに日蓮を献身的に支えたことについては以前にも書いたので、そのことはこちらの記事を読んでもらうとして……

嘉暦2年(1327)、妙宣寺は佐渡守護代、雑太(さわだ)城主の本間山城守の命により、竹田川の近くに移される。ちょうどわしが執権をやっていた頃のことじゃな。天正17年(1585)、佐渡に侵攻してきた上杉景勝により本間氏は討伐されるが、このとき直江兼続は妙宣寺に「寺内は前々の如く、諸式相違有るべからず」と寺領安堵状を出し、雑太城も払い下げる。現在の蓮華王山妙宣寺はこの城跡に新築移転されたもので、それゆえ境内には城の遺構がそこかしこに残っていた。

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日野資朝の墓

茅葺の仁王門をくぐり山道を右に折れ、五重塔をすぎて石橋を渡ると山門がある。山門をくぐると、その右手の石垣のうえに、日野資朝の墓はあった。

日野資朝は、鎌倉時代後期の公卿で、権大納言・日野俊光の次男。後醍醐天皇日野俊基らと宋学に傾注し、ひそかに討幕をめざす。じゃが計画は失敗し、日野資朝はその罪を一身にかぶり、ここ佐渡へと流罪になる。「当今御謀反」、つまり正中の変のことじゃ。

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このまま後醍醐天皇もおとなしくしていてくれれば世は平穏だったんじゃが、元弘元年(1332)に再度の討幕を企て、笠置山に挙兵する。元弘の変じゃ。けっきょく後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ流罪、日野俊基は鎌倉で斬首となるが、佐渡に流されていた日野資朝にも累が及び、このときいっしょに処刑されている。

一事不再理の現代人の感覚からすれば、この幕府の処置には批判もあるじゃろう。当時としても流人があとから死罪になるケースはほとんどなかったしな。じゃが、事は鎌倉の存在を根底から揺るがしかねない大問題。評定の場で執事の長崎高資は、断固とした処分を主張した。

「先年土岐十郎が討たれし時(正中の変)、当今の御位を改め申さるべかりしを、朝憲に憚て御沙汰緩かりしに依て此事猶未だ休まず。乱を撥らうて治を致すは武の一徳也。速に当今を遠国に遷し進せ、大塔宮を不返の遠流に所し奉り、俊基・資朝以下の乱臣を、一々に誅せらるるより外は、別儀あるべしとも存候はず」

さすがに天皇を弑するわけにはいかんが、禍根を断つためには「隠謀の逆臣」を生かしておくわけにはいかなかったんじゃよ。

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日野資朝暗殺を命じられたのは佐渡守護代・本間山城入道(本間泰宣)。雑太城に幽閉されていた資朝は、元弘2年6月2日、本間三郎によって竹田川のグミの木川原で斬首された。遺体はここで荼毘にふされ、遺骨は高野山に葬られたと伝えられている。

五蘊 仮に形を成し
四大今空に帰す
首を将って白刃に当つ
截断一陣の風

武家の都・鎌倉を守るための措置ゆえ、幕府のトップとしてこの裁断に誤りはない。資朝ももちろん、覚悟しておったことは、この辞世からも感じとることができる。わしのことを恨んでおったじゃろうか? 後醍醐天皇の行く末を案じておったのじゃろうか? 鎌倉が滅んだ後の南北朝の騒乱を資朝はあの世でどう思っていたのじゃろうか。そんなことをつらつらと考えながら、墓前に手を合わせる。なお、日野資朝については以前にも書いたので、よろしければこちらを読んでたもれ。読んでくれればわかるが、はっきりいって、かなりの変人じゃよ。

 阿新丸の仇討ち 

さて、太平記には日野資朝の息子・阿新丸(くまわかまる)の逸話が記されている。世阿弥の「檀風」という能でも知られた話じゃな。父・資朝が斬首になると聞いた阿新丸は、せめて一目でも会いたいと京都から佐渡へとやって来る。本間山城入道は阿新丸を丁寧に遇したが、ここで父子を会わせては資朝の覚悟もにぶり、また鎌倉への覚えもよくないと、阿新の願いは聞き入れられなかった。

阿新是を一目見て、取手も撓倒伏、「今生の対面遂に叶ずして、替れる白骨を見る事よ。」と泣悲も理也。

 資朝の遺骨を渡された阿若丸は、この本間入道の情のない措置に憤り、ひそかに仇討ちを決意する。病と称して佐渡にとどまり、夜な夜な本間屋敷に忍び込んで、本間入道を殺害しようと計画を練る。

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風雨激しい夜、阿新丸は計画を実行しようと、本間入道の寝間に忍び込む。しかし入道はその日に限り寝所を変えており、阿新丸はしかたなく、資朝を処刑した本間三郎を殺害し、仇討ちを遂げる。

折節夏なれば灯の影を見て、蛾と云虫のあまた明障子に取付たるを、すはや究竟の事こそ有れと思て障子を少引あけたれば、此虫あまた内へ入て軈(やが)て灯を打ち消しぬ。今は右とうれしくて、本間三郎が枕に立寄て探るに、太刀も刀も枕に有て、主はいたく寝入たり。先刀を取て腰にさし、太刀を抜て心もとに指当て、寝たる者を殺すは死人に同じければ、驚さんと思て、先足にて枕をはたとぞ蹴たりける。けられて驚く処を、一の太刀に臍の上を畳までつとつきとをし、返す太刀に喉ぶゑ指切て、心閑に後の竹原の中へぞかくれける。

当初、阿新丸は自らも腹を切って自害しようと考えていたが、「悪しと思親の敵をば討つ、今は何もして命を全して、君の御用にも立、父の素意をも達したらんこそ忠臣孝子の儀にてもあらんずれ」と思い直し、逃走する。

若やと一まど落て見ばやと思返して、堀を飛越んとしけるが、口二丈深さ一丈に余りたる堀なれば、越べき様も無りけり。さらば是を橋にして渡んよと思て、堀の上に末なびきたる呉竹の梢へさらさらと登たれば、竹の末堀の向へなびき伏て、やすやすと堀をば越てげり。 

妙宣寺の西のはずれに阿新丸隠れ松がある。追われた阿新丸は竹を伝って堀を越え、この松の後ろに隠れて、難を逃れたという。その後、阿新丸は山伏に助けられて越後に渡り、日野邦光と名乗って南朝の臣として活躍する。

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南北朝の騒乱では、日野邦光は新田義氏と共に石見国へ下向し、北朝軍と戦っている。その後は後村上天皇の綸旨をもって九州へ向かい、征西将軍懐良親王のために働いている。正平16年/康安元年(1361)には、四条隆俊、細川清氏らと京都に乱入し、将軍足利義詮を近江へ追い落としに一役かい、2年後の正平18年(1363年)に没。

明治になって修身の教科書では、日野邦光は忠孝二つながら全うした人物として喧伝され、正三位を追贈されている。また、日野資朝順徳天皇、菅原道眞とともに真野宮の祭神として合祀されており、これまた復権している。

ただ……こうなると鎌倉の命に忠実じゃった本間山城入道が、いささか可愛そうな気がするのは、身びいきすぎるじゃろうか。ちなみに「太平記」によると、本間山城入道(泰宣)は、鎌倉幕府が滅亡した時に極楽寺坂の戦いで戦死している。その件については、こちらを読んでいただければ幸いじゃ。