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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

佐渡の順徳天皇〜どじょう汁がお気に入り?承久の乱で島流しとなった後はどうしておられたのか

佐渡への旅の話、続く。先日はこの旅の目的のひとつ、日野資朝(と阿新丸)の墓参について書いたが、本日は順徳院のご生涯についてじゃよ。

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順徳天皇と承久の乱

順徳天皇は後鳥羽上皇の第3皇子。温和な兄の土御門天皇とは対照的で激しい気性の人だったという。おそらく後鳥羽院のご性格を色濃く受け継いでおったのじゃろう。

そんな順徳天皇に後鳥羽上皇は大いに期待するところがあり、承元4年(1210)、土御門天皇の譲位(生前退位)を受け、わずか14歳で即位した。ただし政務そのものは治天の君である後鳥羽上皇がとり、順徳天皇は有職故実の研究に没頭して『禁秘抄』を著し、藤原定家に師事して歌才を磨いた。

源実朝公が暗殺されたことをきっかけに、後鳥羽上皇は鎌倉幕府打倒を決意。そのとき、順徳天皇は後鳥羽上皇以上に積極的で、懐成親王(仲恭天皇)に譲位すると承久の乱を主導した。

血気にはやる25歳。源氏の血統ならまだしも、伊豆の土豪の北条ごときが力をもち、朝議にとやかくいってくるのは、気性激しい順徳天皇にはがまんがならなかったのかもしれぬ。じゃが挙兵は失敗し、後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳上皇は佐渡へと配流になる。

佐渡へ配流。恋が浦に上陸

恋が浦-順徳上皇御着船の地碑

佐渡 恋が浦-順徳上皇御着船の地

佐渡の真野湾に恋が浦というところがある。じつにロマンチックな地名じゃが、このあたりは順徳院が佐渡に上陸した場所だといわれ、それを顕彰する石碑が建っている。

いざさらば 磯打つ並みにこと問わむ
隠岐の彼方には何事かある

「恋が浦碑」は明治18年春の建碑で、ここには順徳院が後鳥羽院を思う歌が記されている。この地で22年間過ごした順徳院への敬上愛君の情が偲ばれるではないか。

大正5年には当時、皇太子であった昭和天皇が佐渡を訪れ、「東宮殿下御上陸記念碑」が建碑された。ちなみに揮毫は東郷平八郎元帥じゃよ。

恋が浦-順徳上皇御着船の地碑

「順徳上皇の稗粥物語碑」というのもあったぞ。

これほどに身の温まる草の実を
ひえの粥とは誰かいふらむ

春とはいえまだ寒い佐渡で、地元の老婆から温かい稗の芋粥をふるまわれた順徳院はいたく感謝され、この歌を詠んだという。

大佐渡山地、小佐渡山地をを背景にする真野湾の景色は、当時とそれほどかわっていないじゃろうが、はたして順徳院はどんな思いで佐渡に降り立ったんじゃろう。北条のものが余計なお世話といわれるかもしれぬがな。

恋が浦-順徳上皇御着船の地

黒木御所、佐渡での生活

つづいてわしが訪れたのが黒木御所。順徳院が流人生活を過ごした場所じゃ。当初は国分寺が行在所となっていたが、この地に仮宮を建て、移られたとか。

「黒木」という名称は、皮付のままの丸太を組んで建てられた粗末な御所、ということからきている。順徳院にしてみれば、世が世なれば自分が「治天の君」だったのに…という忸怩たる思いも募ったことじゃろう。

黒木御所−順徳院の行宮

黒木御所−順徳院の行宮

かつて黒木御所の四隅には御持仏として観音、弥陀、薬師、天神が祀られ、順徳院はそれらを日夜礼拝されたという。順徳院没後は次第に荒れるがままになっていたが、明治28年に整備され、昭和27年(1952)には佐渡出身のお金持ちが工事費として10数万円寄附し、今日に至っている。

歌才あふれる順徳院の旧蹟だけに、周囲には斎藤茂吉ら文人の句碑、歌碑が建っておった。もちろん順徳院の御製もある。

ももしきや 古き軒端のしのぶにも
なほあまりある昔なりけり 

この歌は「小倉百人一首」の100番目に採録されているが、順徳院が佐渡で朝廷のかつての栄華といまの衰微を嘆き、読んだ歌らしい。

黒木御所−順徳院の行宮

順徳院がある日、ドジョウ汁を煮ていたところに、村人がやってきた。村人たちはここに住む人がそんな高貴な人とはつゆ知らず、金北山にハイキングに行こうと誘う。

順徳院は村人たちに先に出かけてもらい、ドジョウ汁を食べおえてから後を追いかけた。その後、順徳院は祓川畔で村人たちと出会う。

「なんだ、遅いじゃないですか。もう帰るところっすよ」
「そうでしたか、それは残念。では、私はせっかくなんで金北山に祈りをささけてから帰るとしましょう」

順徳院が川の水で口をすすぐと、口からドジョウが飛び出してきた。そして山に向かって柏手を打つと、なんと山の方から白馬に乗った神様が飛んできたというのじゃ。このとき、村人たちはこの人がやんごとなき人であることを初めて知り、以後、厚く敬ったという。また、祓川にドジョウが住んでいるのは、このときからだとか。

真偽のほどはこの際、どうでもよくて、さっきの稗の芋粥の逸話といい、佐渡の村人たちとの交流は、なかなか心温まる話ではないか

黒木御所−順徳院の行宮

皇太子だった昭和天皇による行啓時の記念碑と御手植えの松も健在じゃ。皇居では皇霊殿に歴代天皇が祀られておるが順徳院ももちろん合祀されておる。そういえば来週はもう秋分の日じゃな。宮中では秋季皇霊祭がとりおこなわれ、皇祖の神に祈りが捧げられることじゃろう。わしもご先祖様の墓参りに行かねばならぬな。

なお、近くの本光寺には順徳院が日夜拝礼された御所四隅の持仏のうちのひとつ、聖観世音菩薩が本尊として祀られている。こちらは聖徳太子が彫ったもので、国の重要文化財らしい。

黒木御所−順徳院の行宮

順徳院の崩御

続いては順徳院が亡くなったとされる真野宮へ。真野宮はもとは真輪寺じゃったが明治の廃仏毀釈で真野宮となり、順徳院、菅原道真、日野資朝と合祀された。ここの奥まった阿弥陀堂の場所にも順徳院の御在所があったとされている。

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在島21年目の仁治3年(1242年)9月12日、順徳院は崩御した。享年44。順徳院はさいごまで京に帰る日を待ちわびていたようじゃが、それは無理。摂政の九条道家が隠岐に流されている後鳥羽院と順徳院の環京を幕府に打診してきた。

じゃが、北条泰時公は断固としてこの要求をはねつけている。

延応元年(1239)、隠岐で後鳥羽院が崩御する。順徳院は父の後鳥羽院とは配流後も時折手紙のやり取りをしており、後鳥羽院崩御の報せを聞いた順徳院は、こんな歌を詠んでいる。

同じ世の 別れはなほぞ しのばるる 空行く月の よそのかたみに

同じ世でも遠い場所に流されたというのに、亡くなられた今は一層懐かしく思えてなりません。今宵の月を父上の形見と思って眺めております。

その後、順徳院は病にかかってしまう。病は幸いにも平癒したが、京に帰る望みが絶たれた順徳院は「存命無益」と断食を決行する。そして最後は、焼け石をアタマに乗せて亡くなったといわれている。歴代天皇の中でもじつに苛烈、壮絶な最期じゃな。

崩御の翌日、順徳院のご遺体は火葬された。そして寛元元年(1243)、順徳院は遺骨となって京に戻り、後鳥羽院の大原陵の傍に安置されるのじゃよ。

真野御陵

真野御陵

近くにある真野御陵は、順徳院の火葬塚である。 現在は宮内庁書陵部の管理になっておる。まあ、誰もいないんじゃけどな

環京の思いを断ち切った鎌倉幕府を、順徳院はさぞかし恨みに思ったであろう。幕府としても仕方がない措置とはいえ、順徳院が怨霊として祟るのではないかとガクブルだったようで、佐渡院から順徳院へと諡号がなされている。

この「徳」という字はどうやら不幸な身の上の天皇の怨霊化を防ぐために諡号の時に用いられているようで、孝徳、文徳、崇徳、安徳、顕徳(のちに後鳥羽に追号)、そして順徳……みなそうじゃな。

吉田寅次郎と宮部鼎蔵も訪れた真野御陵

真野御陵

嘉永五年(1852)2月、宮部鼎蔵と吉田寅次郎は東北旅行の途上に、佐渡を訪れ、真野御陵に立ち寄ったという記録がある。御陵の前には、それを顕彰する碑があった。

まず、こちらが宮部鼎蔵。

陪臣命を執り羞づるなきをいかんせん。
天日、光を失ひ北陬(佐渡)に沈む。
遺恨千年又何ぞ極まらん。
一刀断たざりき賊人の頭

で、こちらは吉田寅次郎。

異端邪説斯の民を誣ふるは、復た洪水禽獣の倫に非ず。
苟も名教維持の力に非ずんば、人心まさに義と仁を滅せんとす。
憶ふ昔姦賊国均を秉り、至尊蒙塵して海浜に幸したまふ。
六十六州悉く豺虎、敵愾勤王一人もなし。
六百年後壬子の春、古陵に拝す遠方の臣。
猶お喜ぶ人心は竟に滅せず、口碑今に於いて伝ふ、事新たなるを。

はあ……よくわからん。よくわからんのじゃが、要するに北条に対して悲憤慷慨していることだけは、かろうじてわかる。しかし、じゃな……

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長くなってきたからもうやめるけど、宮部鼎蔵や吉田松陰が憤る北条義時公・泰時公は、北畠親房や水戸学も高い評価をしていて、後鳥羽院、順徳院のほうがおかしいといってるんじゃが、そこはどう考えておるんじゃ? 

後鳥羽院も順徳院も、大好きな歌の道を極めておればよかったんじゃよ。少なくともあの時代、朝廷に国政をしきる力なんぞ、なかったじゃろうから承久の乱ははっきりいって無謀。その後の後醍醐天皇の建武の新政も同じじゃよ。

真野御陵

もちろん、義時公、泰時公と違ってわしが暗愚だったことを言い逃れするつもりはない。鎌倉幕府は滅んでしまったわけで、メタクソにいわれても反論の余地もないからな。なんか、話が明後日の方にいってしまったので、本日はこれにてもうおしまい。