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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

御館の乱〜上杉景勝と景虎の謙信後継をめぐる跡目争い

え、ここがあの、上杉謙信後継をめぐって景勝と景虎が争ったという歴史的事件・御館の乱が起きた現場なのか? 謙信ゆかりの林泉寺に行った後、せっかくなので御館跡に立ち寄ってみたんじゃが……そこは人っ子一人、犬一匹、猫一匹いない公園じゃったよ。

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上杉謙信は景勝と景虎のどちらを後継と考えていたのか

御館は小田原北条氏に敗れ、越後へ逃げてきた関東管領上杉憲政のために上杉謙信が造営した館。上杉憲政は天文15年(1546)、有名な河越夜戦北条氏康に大敗した後、味方がつぎつぎと離反。上野平井城が落ちると、抗しきれずに越後へ逃げ込み、謙信(当時は長尾景虎)を頼る。謙信はその後、上杉憲政を奉じて関東へ侵攻。永禄4年(1561)には、鎌倉の鶴岡八幡宮で正式に関東管領の職を継いだというわけ。

御館は2重の堀に囲まれた大規模な館で、その大きさは東京ドームの1.6倍もあったとか。謙信は関東管領として、ここを政庁として用いたそうじや。明治の頃までは堀や土塁の遺構が残っていたようじゃが、現在ではJR線が通り、周囲は閑静な住宅街となっており、当時を偲ぶよすがは皆無。40数年前に発掘調査が行われ、中心部分だけを御館公園として残し、いまは石碑がぽつんとあるのみじゃ。

この場所が歴史の脚光をあびたのは、謙信没後に勃発した御館の乱でのこと。上杉謙信は生涯不犯を貫いたため実子がいない。しかも家督相続について何も言及しないまま、脳卒中で突然死亡してしまい、家中は景勝・景虎のふたりの養子のうち、どちらを後継とするかで真っ二つに割れて大混乱、越後を二分する争いとなる。跡目争いは権力者の常ではあるが、おかげで上杉氏はすっかり疲弊してしまうのじゃよ。ほら、大河ドラマ天地人」でやっていたじゃろ? 北村一輝さんが景勝、玉山鉄二さんが景虎、ちなみに妻夫木聡くんが直江兼続じゃよ。

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上杉景勝の出自は上田長尾家。生母は謙信の実姉の仙桃院だから、景勝は甥にあたる。謙信から弾正少弼の官途名を譲られているし、配下の兵も多い。おまけに謙信の「御実城様」に対し「御中城様」という尊称で呼ばれ、上杉一門衆のいわば筆頭ともいうべき立場じゃった。

一方の上杉景虎北条氏康の七男。北条三郎と呼ばれていた。幼少期は箱根早雲寺で喝食の僧として過ごし、のちに武田信玄に人質に出されたという説もある。その後、大叔父の北条幻庵の養子となるが、上杉北条の越相同盟が成立すると、人質として越後へ赴き、謙信の養子に迎えられる。なかなかの苦労人じゃな。謙信はそんな三郎を愛し、姪(景勝の姉)を娶らせて、自身の初名である「景虎」を名乗らせるなど、大いに厚遇している。三郎もまた、越相同盟の破綻後も越後に止まり、謙信の期待に応えようとしていたようじゃぞ。

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はたして謙信はどちらを後継にしようとしていたのか。それはまったく伝わっていない。ふつうに考えれば長尾家の出である景勝のほうが越後の人は納得するように思うが、そもそも越後は諸氏が何代もに渡り権力闘争を続けてきた歴史がある。謙信の代は、かろうじてそのカリスマ性でまとまっていたものの、景勝ですんなり決まりというわけにもいかない事情があったらしい。事実、直江信綱、斎藤朝信、河田長親ら謙信側近は景勝を支持しているが、古志長尾家当主の上杉景信などは景虎を支持している。景信にしてみれば、上田長尾家出の景勝が後継になることは到底認めがたいものだったようで、このあたりの事情は根深い。

いっぽう、上杉景虎も北条の実力を背景に、北条と同盟していた武田や蘆名、伊達も支援に回った。また、上杉憲政も景虎を支持したし、北条高広、本庄秀綱ら謙信の側近も少なからず味方している。謙信は関東管領職を景虎に継がせ、越後国主を景勝に継がせようとしていたという研究者もおるし、わしもじつはそんな気がしておる。もちろん、じっさいのところは謙信にしかわからず、現時点ではすべては歴史の闇の中なんじゃが。いずれにせよ、いつの時代でも跡目争いというのは壮絶なものじゃ。

かくして御館の乱が勃発

さて、北条をバックにつけている景虎に対し、景勝はどうにも分が悪い。そこで景勝は先手を打って春日山城本丸を奪取し、土蔵の黄金をおさえ、三の丸の景虎に先制攻撃をかける。景虎は三の丸を退去し、関東管領の政庁である御館に移って抗戦。北条氏政らの支援を待ちつつ、春日山城下に放火するなど、逆襲に転じる場面もあった。また蘆名盛氏、伊達輝宗が北条との同盟にもとづき越後に侵入してくるなど、この時点での戦況は明らかに景虎有利じゃった。

じゃが、北条氏政はこのとき、宇都宮、佐竹と敵対しており、越後に本格的に介入することができないでいた。そこで、氏政は武田勝頼に景虎の支援を依頼。勝頼は武田信豊に2万の兵をつけて信越国境に派遣したのじゃが……勝頼はやらかしてしまうのじゃよ。

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窮地に陥った景勝は武田勝頼に買収工作をしかける。大量の金と北信濃の領地割譲をもちかけられた勝頼は、あっさりとこれを飲んで景勝と同盟、春日山城下に進出し、景虎との仲を調停する。多少、景虎や北条に悪いな、という気持ちもあったんじゃろうか、これで景勝と景虎は一時休戦。じゃが、信玄の時代の武田の実力ならいざしらず、いまの勝頼にそんな大仕事を全うできるはずもなし。徳川家康駿河に侵攻してくると勝頼はそちらでていっぱいとなり、景勝と景虎はふたたび戦端をひらくことになったわけじゃ。

武田の介入を排除した景勝方はしだいに景虎方を押し込んでいく。景虎は御館に立て篭もるが兵糧を確保できず、遠方の諸将との連携もとれず、たのみの北条も雪で三国峠を越えられない。かくして形勢は逆転、天正6年(1578)3月17日、上杉憲政は和平のために景虎の長子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭する。じゃが、その途上、憲政と道満丸は無情に殺害され、御館は劫火に包まれる。景虎はかろうじて逃亡をはかるも、寝返った堀江宗親に攻められ、無念の最後を遂げる。享年26。

さて、その後の影響じゃが、まずは武田勝頼。これはもう、明らかに下手をこいている。北条氏政はこれを勝頼の裏切りとみた。もちろん、勝頼にしてみれば、景虎が勝利すれば上杉と北条はより強い結びつきとなり、武田をぐるりと包囲するようなカタチになるから、それを危惧したということもあろう。じゃが、御館の乱の後、北条氏政織田信長徳川家康と同盟して武田領に攻め込んでくる。勝頼は上杉景勝に妹の菊姫を嫁がせて関係を強化するが、景勝は乱の後始末で手一杯。とても援軍を出せる状況ではなかった。

この後、勝頼は信長と好を通じるのに懸命だったみたいじゃが、信長にはその気はまったくない。結果論かもしれぬが、武田が生き延びるためには、北条と上杉と同盟を組んで対抗する以外にはなかったじゃろう。それだけに景勝の買収工作にのっかったのは失敗じゃったな。

この乱で上杉もまた大いに疲弊した。もし、本能寺の変がなければ、信長に滅ぼされていたことじゃろう。幸い上杉は武田、北条が滅んでいくのをよそに、豊臣の臣下として生き残る。もっとも最後には徳川に楯突き、米沢に押し込められてしまうわけで、はたしてよかったのか悪かったのか。このあたり、謙信の意見も聞いてみたいもんじゃな。

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