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鎌倉ではたらく太守のブログ

愛犬家で歴オタ、うつつなき者の備忘録。湘南ベルマーレを応援中。

那須与一、願わくばあの扇の真ん中射させたまへ…

鎌倉・室町

さて、今回はアニメ「ドリフターズ」で注目の那須与一島津豊久織田信長とともに異世界で大活躍する与一は史実のうえでも謎多き武者。というより『吾妻鏡』『玉葉』『愚管抄』など、同時代の史料に登場してこないため、実在したかどうかすら疑わしいんじゃよ、じつのところ。

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那須氏の出自と与一

那須氏の出自については、藤原道長の曽孫資家を祖とするとか、古代の那須国造の末裔であるとか、どうもはっきりしない。記録のうえで那須氏が出てくるのは与一ではなく2代後の那須光資がはじめてで、『吾妻鏡』の建久4年(1193)には、源頼朝公の那須野巻狩で接待役をつとめたとある。

系図上の与一は那須氏二代目当主とされ、父は那須資隆、妻は新田義重の娘。はじめ宗隆と名乗り、のちに資隆と名乗ったという。与一というのは「十余る一」の余一、つまり十一男を示す通称じゃ。

治承4年(1180)、源九郎義経殿は奥州平泉を抜け出して兄・頼朝公の陣に向かう途上、那須温泉神社に必勝祈願のために立ち寄った。このときすでに那須家の9人の兄達は平氏に味方していたが、資隆は十男の為隆と与一を九郎殿に従軍させたという。当時の与一は17歳から20歳くらいじゃろうか。下野では知る人ぞ知る弓の名手で、あまりに鍛錬をしすぎたため、左右の腕の長さが極端にちがったともいわれている。

那須与一が扇の的を射抜いた逸話

那須与一といえば有名なのなんといっても屋島で平家の軍船の扇の的を射落とした話じゃろう。『平家物語』にはこうある。

沖には平家船を一面にならべて見物す。陸には源氏くつばみをならべて是を見る。いづれもいづれも晴ならずといふ事ぞなき。

与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光の権現、宇都宮、那須のゆぜん大明神、願はくはあの扇のまんなか射させてたばせ給へ。これを射損ずる物ならば、弓きり折り自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見ひらいたれば、風もすこし吹きよわり、扇も射よげにぞなったりける。

与一鏑をとってつがひ、よっぴいてひやうどはなつ。小兵といふぢやう十二束三伏、弓は強し、浦ひびく程長鳴りして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりおいて、ひィふつとぞ射ったる。

鏑は海へ入りければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっとぞ散ったりける。夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日いだしたるが、白浪のうへにただよひ、うきぬ沈みぬゆられければ、沖には平家ふなばたをたたいて感じたり。陸には、源氏箙(えびら)をたたいてどよめきけり。

陸の源氏と海の平氏が睨み合う中、勝敗の行方を占う一種の余興として催された企画と考えられるが、プレッシャーをはねのけて、よくぞ射抜いたものよ。『源平盛衰記』では当初、この大役は畠山重忠に、ついで兄の那須為隆が指名されたが、いずれも辞退、やむなく与一が抜擢されたとある。失敗すれば源氏軍、東国武士の面目はまるつぶれ、与一は死を覚悟して弓を引いたことじゃろう。

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屋島は映画『世界の中心で愛を叫ぶ』のロケが行われた、夕日が美しい場所。このときの与一も、夕日に映える、じつにあっぱれな若武者ぶりであったことじゃろうよ……と想像したいところじゃが、じつはこの逸話には続きがあってな。

弓流あまりの面白さに、感に堪へざるにやとおぼしくて、 舟のうちよりとし五十ばかりなる男の、黒革おどしの鎧きて、白柄の長刀もたるが、扇たてたりける処にたて舞しめたり。伊勢三郎義盛、 与一がうしろへ歩ませよて、「御定ぞ、つかまつれ」といひければ、今度は中差とてうちくはせ、 よぴいてしや頸の骨をひやうふつと射て、船底へさかさまに射倒す。

平家の方には音もせず、源氏の方には又箙(えびら)をたたいてどよめきけり。「あ、射たり」といふ人もあり、又「なさけなし」といふものもあり。平家これを本意なしとや思ひけん、楯突いて一人、弓もて一人、長刀もて一人、武者三人なぎさに上がり、楯をついて「敵寄せよ」とぞ招いたる。

与一が見事に射抜いたのを感嘆した平家の武者が船上で舞いを始める。すると九郎殿は与一に、その武者を射殺すよう命じたのじゃ。「あ、射たり」といふ人もあり、又「なさけなし」といふものもあり……源氏方でも心あるものは眉をひそめ、平氏方は怒り心頭。かくしてこの後は再び大乱戦がはじまるわけじゃが、ドリフの九郎殿にいわせればこうじゃ。

卑怯? 武士(もののふ)の道?
ひきょうって何?
合戦に卑怯も武士道もないでしょ。甘っちょろいな、与一は。

まあ、九郎殿は壇ノ浦でも船の漕ぎ手を射殺すという禁じ手を使っておるしな。この言葉は与一にとってかなりのトラウマになっているようじゃ。

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那須与一のその後

さて、その後の与一のこと。この戦の功により、与一は源頼朝公から丹後、若狭、武蔵、信濃、備中に所領を得る。そして兄達がいずれも皆平氏に味方したこともあり、那須氏の家督は与一が継ぐことになる。

系図の記載によれば、与一の最期は京都、あるいは伏見で病に倒れ、即成院に葬られたらしい。また、梶原景時の讒言により幕府軍に攻められたが、それを撃退して和睦した後、源蓮を名乗って法然に弟子入りし、30年余り全国を旅したという異説もある。そのためか、各地には与一にまつわる伝承が残されている。

与一には子はいなかったので兄の五郎資之が家督を継ぐ。そして那須氏は鎌倉幕府滅亡後の南北朝の争いでは足利尊氏につき、室町、戦国の世を紆余曲折ありながらも生き残る。そして江戸時代には烏山藩のお殿様になっておる。その後は改易されるも徳川家臣となり、明治維新を迎えることになる。ちなみに歴代当主みな「与一」を名乗ったらしいが、やはり一族の譽れだったんじゃな。

繰り返すが、これまで那須与一について縷々わしが書いてきたことは、みな歴史学的には確証がない。とはいえ、これだけ有名で全国に伝承が残る与一ちゃんが実在しなかったというのは、いささか乱暴な気がする。扇の的の話にしても、かなり盛ってはいるかもしれんが、元ネタになる出来事くらいはあったとわしは思うんじゃが、どうじゃろうか。

ということで、ゲンジバンザイ。

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